2025年12月28日(日)礼拝説教 詩篇23篇1-6節 「主は私の羊飼い」
<子どもたちへ>
今年最後の日曜日となりました。クリスマスが終わり、皆は冬休みに入りましたね。楽しいクリスマスを過ごすことが出来ましたか。楽しみと言えば、年末の大晦日とかお正月など冬休みにもたくさんありますね。僕は、小学4年生の時に担任の先生に言われた冬休みの注意を忘れることが出来ません。先生は、クラス全体に対して冬休みの過ごし方について話していたのです。その中で先生は、「赤松君は、お餅を食べすぎないように」と僕にだけ注意をしました。僕は、その当時、給食の残りを全部食べてしまうくらい給食が大好きでした。隣のクラスからも「赤松君に」と給食の残りが回ってくるほどになりました。だから、担任の先生は、僕にだけ食べすぎ注意を言ったのだと思います。もちろん僕は、三学期が始まった時、お餅をたくさん食べたことを担任の先生に報告しました。皆にとって良い冬休みとなるようにと祈っています。
さて皆にとって2025年は、色々なことがあったことだと思います。どんな思い出が残っているでしょうか。一年を振り返りながら、大切なことを覚えておきましょう。それは、神様が、僕たちを守り導く羊飼いであるということです。今週の聖句を読みましょう。
「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。」詩篇23篇1節
イエス様は、「わたしは良い牧者です」と言われました(ヨハネ10:14)。神様、イエス様が羊飼いと言うことは、僕たちは羊と言うことです。羊の群れにとって羊飼いは、とても大切な存在です。羊は、羊飼いがいないと生きていけない動物だからです。
「さあ、出かけよう。」羊飼いは、羊の囲い場の入り口に立って羊たちに声を掛けます。羊飼いは、「ジョン、メリー、たろう、じろう、ケン、えり、・・・・・。」と一匹ずつ名前を呼びます。羊たちは、羊飼いの声を知っているので、羊飼いの声を聞くと喜んでついて行きます。羊飼いは、緑の草が広がっている牧草地に連れて行ってくれるし、水を飲ませてくれるし、休ませてくれるからです。
羊は、とても弱くて、臆病で、群れの一匹がパニックになるとつられてパニックになってしまいます。羊は、一度迷子になったら、方向も分からなくなり、元の道に戻ることが出来ません。だから羊飼いは、羊が群れから離れないようにといつも見守っています。もし一匹でも羊が迷子になったなら、羊飼いは羊を捜し続け、助けに行きます。ライオンや熊が羊を襲ってきたら、羊飼いは命がけで羊の群れを守ります。こうして羊は、安心して生活することが出来るのです。
「主は私の羊飼い」です。イエス様は、僕たちの羊飼いです。イエス様は、僕たちの名前を呼んで声をかけてくださいます。僕たちは、羊と同じように弱くて、誰かの助けを必要としています。皆は、不安な事もあるでしょう。気持ちが落ち着かず落ち込んでしまう事もあるでしょう。神様が悲しまれる罪を犯してしまうこともあります。イエス様は、僕たちのそのような心の内側の思いを知っていてくださいます。イエス様は、どんな時でも僕たちを見つけ出し、離さず、守ってくださいます。それだけではなく、イエス様は、僕たちの罪が赦され、救いを受けられるように、十字架にかかってくださいました。イエス様は、命を捨てて、僕たちが永遠の命(天の御国へ続くいのち)を持ち、神様の愛を受けて歩むことが出来るようにしてくださったのです。だから僕たちは安心していられるのです。2026年も羊飼いであるイエス様に従い、守られて歩みましょう。
<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。神様、あなたが僕たちの羊飼いであり、いつも僕たちを導き、守ってくださることをありがとうございます。
2026年もイエス様を信じて歩み続けることが出来るように守ってください。冬休みに入っているお友だち一人ひとりをお守りください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」
「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。」 詩篇23篇1節
<適用>
クリスマスの諸集会のためにお祈りとご協力をありがとうございました。それぞれの集会が神様からの祝福に溢れたものとなりました。
教会では、クリスマスの飾りつけをします。私が子ども時代に通っていた教会でもアドベントの前には、教会のみんなで「去年はどんな飾りつけだったけ?」と話し合いながらクリスマスの飾りつけをしていました。私が中学生の時、数人の中高生たちで決まった飾り以外に新しいことをしようと話し合いました。そして私は、「ここにも飾ろう、あそこにも飾ろう」と毎日のように考え、一つずつ飾りを増やしていきました。考えている時間は楽しかったです。窓ガラスの飾りつけに使えるというスプレーを買ってガラスの下半分に模様をつけたりもしました。そのうち教会の先生から「もう終わりにしてくれ」と言われて渋々終了したのを覚えています。私は、飾りつけをしたらいずれ片付ける時がやって来ると言うことを気にしていませんでした。増やした分は、私が責任をもって片付けることになりました。窓に使えて簡単に落とせるというスプレーは、窓の結露などによって堅くなってしまい、簡単には落とせませんでした。私は、片付けながら「来年はあまり増やさないようにしよう」と決意するのでした。
一年を終わるにあたり、皆さんはどのように振り返るでしょうか。一年を振り返った時、私たちは何を思い浮かべることが出来るでしょうか。「辛いことがあった。大変だった。」「嬉しいことがあった。」「特にない」などいろいろが事柄あるでしょう。そのすべての事柄の中で「主がおられた」という恵みを見つけられたら幸いです。私たちは、「主は私の羊飼い」と一年を振り返り、「主は私の羊飼い」と新しい一年を迎えることが出来ます。
Ⅰ;乏しいことがない
主は私たちの羊飼いです。だから私たちは、乏しいことがありません。詩篇23篇の作者は、「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。」と歌っています。
リビングバイブルでは、「主は私の羊飼いですから、必要なものはみな与えてくださいます。主は私を牧草地にいこわせ、ゆるやかな流れのほとりに連れて行かれます。」と訳しています。
詩篇23篇の作者は、羊の特徴を良く知っていてこの詩を歌いました。羊は、一匹では生きていくことが出来ません。群れで動くことを好みます。だから羊飼いがいないと行動することが出来ないのです。また羊は、すべての面で安全でない限り体を横にして休むことはしないと言われています。すべての面でというのは、「①臆病なので外敵がいないこと」「②ほかの羊との関係で摩擦がないこと」「③体に害虫・寄生虫がいないこと」「④食料の心配がないこと」です。羊飼いは、羊のためにこの4つの条件を満たすように世話をするのだそうです。
2節の「緑の牧場に伏させ いこいのみぎわに伴われる」という羊飼いの行動には、私たちの想像を超えた苦労があるようです。羊飼いをしていたというW.フィリップ・ケラーが「羊飼いが見た詩篇23篇」と言う本を書いています。その中でケラーは、「緑の牧場は、ただ偶然できるのではない。緑の牧場は途方もないほどの労働と時間、そして土地利用の技術の結果としてできたのである。緑の牧場は、荒れた岩地を切り開き、かん木や切り株などを引き抜き、深く耕し、注意深く整地をし、特別な穀物や豆を植え、水を通し、念入りに手入れをした結果なのである(P52)。」と書いています。放牧の時でも、羊には毒となる草をすべて除去してから羊を牧草地に連れて行くという途方もない時間と労力が必要であるとも言われています。
また羊飼いは、水質の良い水飲み場を熟知していますから、羊をそこに連れて行くのです。羊飼いは、牧草地や水飲み場の確保もすべては羊のために行動をするのです。主は私の羊飼いです。神様は、私たちに必要なすべてのことを知っておられますから、それらのことを満たして、与えてくださるお方です。私たちは、羊と同じように一人で生きることが出来ません。誰かとつながっていたくて、自分がいるべき場所を求めるものです(家庭や友だち、教会)。また私たちは、ストレスに弱いものです。人間関係や難しい事柄、考えなくてはいけないことなど、ほんの小さなことでもストレスを感じると落ち着きがなくなります。そして私たちは、心のエネルギーを求め続け、捜し続けるものです。これらのことを全て満たしてくださるのが、主なる神様です。「主は私の羊飼い 私は乏しいことがない」と告白して一年を振り返り、新しい年への心の準備をしましょう。
Ⅱ;主が共におられる
主は私の羊飼いです。羊飼いである神様は、私たちと共におられます。だから私たちは、恐れることはなく前に進むことが出来るのです。
私たちの人生は、いつも順風満帆と言うわけにはいきません。思いがけないことがあり、自分の力や知恵ではどうしようもないことがあります。時には、大きな責任が伴う仕事をすることがあり苦しむことがあります。自分では、進みたくない道を通らなくてはいけないことがあります。そのような時、私たちは、どんな気持ちで前進することが出来るのでしょうか。もし「いやだ。どうしてこんなことに」と思い続けていたら、暗い寂しい、希望のない道となるでしょう。しかし詩篇の作者は、たとえどんなことがあっても神様が共におられるのだから、災いを恐れることはない。主が共に苦難を通ってくださると言うのです。
私たちは、生きていると様々な誘惑、この世の惑わしに直面することがあります。神様の御言葉に従う生き方は、この世の生き方と正反対だからです。この世の生き方は、人の欲望を刺激し、自分の好むことを選び、自分の思いのままに生きることを賞賛します。けれどもその行き着く先は、暗やみと死の陰の道で、滅びへと続いているのです。しかし詩篇の作者は、多くの誘惑があってもそれに惑わされず、打ち勝つ方法があることを私たちに教えています。神様が、私たちと共におられるから私たちは大丈夫なのです。
3~4節のリビングバイブル訳の言葉を紹介します。「傷ついたこの身を立ち直らせ、私が最高に主の栄光を現わす仕事ができるよう、手を貸してくださいます。たとい、死の暗い谷間を通ることがあっても、こわがったりしません。主がすぐそばにいて、道中ずっとお守りくださるからです。」
神様は、私たちの心を、たましいを生きかえらせ、勇気と希望を与えてくださいます。ですから私たちは、これから先の将来がどうなるのだろうと不必要に心配し、恐れを抱く必要はありません。私たちは、試練だと感じ、立ち止まって考えること、思い悩むことがあります。それは、神様が私たちの心に手を指し伸ばし導いておられる瞬間です。
私たちの救い主イエス様は、私たちが罪のために神様から離れ暗闇の人生を歩み、たましいの滅びに向かうことがないように十字架にかかってくださいました。神様は、イエス・キリストの十字架の死と復活によって、救いのみわざを信じる私たちを罪の暗闇から栄光輝く光へ、失望ではなく希望へ、恐れではなく平安へ、確実に導いてくださいます。
私たちは、「主は私の羊飼い 主が私と共におられる」と信仰の告白をして一年を振り返り、新しい年を迎えることが出来ます。
Ⅲ;恵みは現在進行形
主は私の羊飼いです。羊飼いである主なる神様からの恵みは、いつも「現在進行形」です。私たちは、「あの時は、神様が助けてくださった。」「この時は、恵みを受けた」と自分が受けた神様の恵みを過去形で話すことがあります。これは、ある意味で当然だと言えるでしょう。けれども私は、その言葉の中に今ある神様の恵みを忘れているのではないかと思えることがあると思います。昔の出来事、過去の神様の恵みは、現在の私たちの歩みにつながっているのです。そのことを忘れてはいけません。神様の恵みは、過去から現在へ、そして未来へと継続しているのです。6節には、「私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みが 私を追ってくるでしょう」とあります。これは、私たちの生きている限り、私たちの人生全てに神様の恵みがついてくる、溢れているということです。私たちは、この地上で神様と共に歩み、主の家に憩う者として生きることが出来るのです。そして私たちは、いつの日か天の御国で主の家に住まうことができるのです。
私たちが一年を振り返った時、「主のいつくしみと恵みが私を追って来た」という瞬間や出来事がきっとあったはずです。私たちは、その一つ一つの事柄を仕事の中で、家庭の中で、自分の心の思い巡らしの中で、人との出会いの中で、等々様々な場面で思い出すことが出来るでしょう。ぜひ、思い返していただきたいのです。そして私たちを日々満たしている神様のいつくしみと恵みを一つも見逃すことがないようにしましょう。と同時に、神様の慈しみと恵みは現在進行形であり、これからも私たちの目の前に備えられていることを信じて歩みましょう。
私たちは、「主は私の羊飼い 私は乏しいことがない。 主が私と共におられる。 恵みは現在進行形で与えられる」と信仰の告白をしながら歩み続けましょう。
<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。主よ、あなたは私の羊飼いです。私は、乏しことがありません。すべてのことが神様によって満たされ与えられることを信じます。神様が共におられ、これまで通り、これからも神様の恵みが注がれることを信じます。
神様、2025年の私たち一人ひとり、そして教会の歩みを導いてくださりありがとうございます。これから迎える2026年の歩みも神様のいつくしみと恵みがあふれるばかり与えられることを信じます。どうか導いてください。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」
