2026年2月22日(日) マタイの福音書21章12-17節 「祈りと賛美を」 CS説教:赤松由里子師、説教:赤松勇二師

2026年2月22日(日) マタイの福音書21章12-17節 「祈りと賛美を」

<子どもたちへ>
 先週は、イエス様がロバの子に乗ってエルサレムに入ったお話でした。今日はその後のお話です。見たことのないようなイエス様のお話ですよ。
 ここはエルサレムの神殿です。神様を礼拝しに来た人たちがたくさんいて、ざわざわしています。この人たちは何をしているのでしょうか?「いらっしゃい、いらっしゃい。鳩はいらないかい?礼拝にはいけにえの動物が必要だよ。」「あら、こんなに高いの?困ったわ」。貧しい人が困っています。 
 隣にいるのは両替人です。「おや、外国から来た人だね。両替してあげるよ。献金するには外国のお金じゃだめだよ。」「ええ?手数料が高すぎるよ。」「いやなら両替して替えしてやらないよ」。こちらももうける気満々です。商売の声や物音がワイワイとひびいて、礼拝したい人、お祈りしたい人が困っていました。
 そこへイエス様が入ってこられました。いつも優しいイエス様ですが、この時は怖い顔をしておられます。「お前たち、ここから出ていけ!!」大声で売り買いする人たちを追い出します。バターン!台やいすを倒しました。

 イエス様が暴れるなんて、どうしたというのでしょう。実はこれは「宮きよめ」と呼ばれる出来事だったのです。
 イエス様は周りを見ておっしゃいました。それが今日のみことばです。一緒に読んでみましょう。「わたしの家は祈りの家と呼ばれる」(マタイ21:13)。
 続いて言われました。「それなのにお前たちはそれを強盗の巣にしている。」祭司たちにはお礼のお金が商売人から払われていたのでしょう、見て見ぬふりでした。礼拝を道具に金儲けをしたがる強盗のようだと、イエス様は怒ったのですね。みんなとても驚きました。
 でもイエス様が喜ぶこともありました。神殿ではイエス様のところに集まって来た人たちがいました。目の見えない人、足の不自由な人たちです。イエス様なら治して下さる、と思ったのです。イエス様はその人たちをなおして下さいました。
 また、小さな子どもたちが神殿に来ていました。子どもたちはイエス様を見て「ホサナ!ホサナ!救い主イエス様ばんざい!」と叫んでいます。イエス様は神様を素直に信じて賛美する子どもたちを、とても喜んで下さったのです。

 皆さん、イエス様は形だけの心のこもらない礼拝は残念に思われます。偉い人たちがしていても残念な礼拝になってしまうことがあります。逆に心からイエス様を愛する心で礼拝するなら、心や体に弱さがあっても、小さな子どもでも、喜んで礼拝を受けて頂けるのですね。教会の礼拝のこともイエス様は見ておられます。自分はどうだろう、と考えてみることが大切です。イエス様にあなたの教会は「祈りの家」となっているね、と言っていただけるようになりたいですね。自分の心と行動を点検して、神様に喜ばれるよう整えて頂きましょう。

<祈り>
「神様、宮きよめのお話を学びました。自分の教会での過ごし方、礼拝の仕方を点検して、神様に喜ばれるようになりたいです。そしてこの教会が、神様への祈りの家として喜ばれる集まりとなれますようにどうぞお導き下さい。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

「わたしの家は祈りの家と呼ばれる」       マタイの福音書21章13節

<適用>
 あと12日でWBC(ワールド・ベースボール・クラッシク:野球の世界大会)が開催されます。今は、冬季オリンピックのためにスポーツニュースでも目立ちませんが、ニューヨークヤンキースで活躍した松井秀喜選手や現役メジャーリーガーのダルビッシュ選手が特別アドバイザーとして加わり着々と準備が進んでいるようです。そしておそらく野球ファンの間では、試合には誰が出場するのか、大谷選手はきっとたくさんホームランを打つだろうとか、最優秀選手は誰になるか等話題がもちきりでしょう。そうやって野球ファンは、勝手に願いと希望をもって予測をするわけですが、日本チームの活躍を期待して胸躍らせてWBCの試合開始を待っていることでしょう。
 私たちは、こうして毎週礼拝に集うわけですが、その時の思いはどのようなものなのでしょうか。毎日聖書を読み祈る時の私たちは、どのような信仰なのでしょうか。今日の箇所から、私たちは、祈りと賛美をもって主の御前を歩む者となることの大切さを学びましょう。

Ⅰ;心からの祈りをささげよう

 私たちは、心からの祈りをささげましょう。イエス様は、ろばの子に乗ってエルサレムに入城された後、神殿に入っていかれました。
 マタイの福音書21章では、イエス様はエルサレムに入城してからすぐに神殿で宮きよめを行ったような書き方になっています。同じことを書いているマルコの福音書では、エルサレム入城をしたイエス様は神殿を見学し、次の日に宮きよめを行ったと記されています。おそらくマタイは、時間的な流れを無視して、大切なこととして連続的に書いているのではないでしょうか。イエス様は、ご自身の十字架を直前にして、本当に大切なことを人々に教えておられるのです。
 イエス様が、ご自分の感情を吐き出すかのように激しい行動をとることは非常に珍しいことです。その直前のイエス様は、ろばの子に乗ってエルサレムに入っています。それは、イエス様が平和の主であり柔和なお方であることを表しています。その他に福音書からは、イエス様が優しく、癒しを行い、厳しく語ることもありますが、その言葉には人を包み込む励ましが溢れています。そのイエス様が、売り買いしている人たちを神殿から追い出し、両替人の台や鳩を売る者たちの腰掛を倒すのです(マタイ21章12節)。でもどうしてイエス様は、これ程の事を行われたのでしょうか。

 当時の神殿(ヘロデ王による神殿改修)には、いくつかの庭が作られていました。まずエルサレム神殿に入ると「異邦人の庭」があります。ここにはユダヤ人以外の異邦人が入ることを許され礼拝をすることが出来ました。その先に「婦人の庭」があり、男性だけが入ることが許される「イスラエルの庭(男性の庭)」があり、一番奥に祭司だけが入れる「祭司の庭」がありました。イエス様が宮きよめを行った場所は、「異邦人の庭」でした。「異邦人の庭」ですから、誰もが礼拝のために入れる唯一の場所だという事になります。ですから多くの人々が礼拝のためにやって来たのです。しかしイエス様が見たのは、騒がしく商売がなされ、異邦人たちの礼拝が妨げられていた光景でした。
 ユダヤ人たちは、巡礼のためにエルサレム神殿にやってきます。イエス様が今回エルサレムに来られたのは、過ぎ越しの祭りの直前ですから、多くの巡礼者たちがエルサレムに集まっていたのです。彼らは、観光のためにエルサレムに来ているのではなく、神殿でいけにえを捧げるため、神様を礼拝するためにやって来ます。遠方から来る場合、いけにえの家畜を連れてくるのは大変です。いけにえとしてささげるためには、厳しい規定がありますので、旅の途中で動物が怪我をしたり、病気になってしまってはだめなのです。ですから、巡礼者は、エルサレムに到着してからいけにえ用の動物を買うほうが都合が良いのです。そのためにエルサレムでは、いけにえとして捧げてよいと認められた動物を販売する商売人がいました。またユダヤ人たちは、ユダヤの通貨で献金をすることになっていました。そこで、当時流通していたローマの貨幣からユダヤの貨幣に両替することが必要でした。だからエルサレムには両替人が多くいたのです。そしてこれらのやり取りが神殿の中で行われていたのですから、神殿内は大変な騒ぎだったことでしょう。

 マルコ11章16節には「また、だれにも、宮を通って物を運ぶことをお許しにならなかった」と言われています。車を運転していると、赤信号で止まるのがいやで、交差点にあるコンビニの駐車場を横切る車を見かけることがあります。それと同じようにして、神殿を荷物の運搬用の近道として利用していた人たちがいたのです。神殿をこのように売り買いの場として使う事を許可していたのは祭司たち、律法学者たちです。彼らは、何を考えていたのでしょうか。売り買いの場として使用していたのは、「異邦人の庭」です。祭司たち律法学者たちは、自分たちユダヤ人が整った場所で礼拝出来ればそれで十分。別に異邦人たちの礼拝が妨げられたとしても自分たちには関係ないと考えていたのではないでしょうか。

 イエス様は、このような神殿の現実をご覧になり、神殿が神殿の役目を果たしていないことをお怒りになり、神殿で売り買いしている人々を追い出されたのです。そしてそこにいた人々に教えて「わたしの家は(神殿)は、祈りの家と呼ばれる」と言われたのです。イエス様は、イザヤ書56章の言葉を引用して教えておられます。神様は、預言者イザヤを通して神殿が全ての民の祈りの家であることを明確に教えておられました。イザヤ書56章3節「主に連なる異国の民は言ってはならない。『主はきっと、私をその民から切り離される』と。宦官も言ってはならない。『ああ、私は枯れ木だ』と。」
 この意味は、「異邦人は、神様に切り捨てられ、主なる神様を礼拝する事は出来ないと絶望する事はない。宦官も何の役にも立たないと失望することはない」という意味です。現代にあわせて言い換えるなら「クリスチャンではないから、教会に、礼拝には行けない」と言う必要はないという事です。神様はイザヤを通してこう言われます。イザヤ書56章4-7節「なぜなら、主がこう言われるからだ。『わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶことを選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、わたしの家、わたしの城壁の内で、息子、娘にもまさる記念の名を与え、絶えることのない永遠の名を与える。また主に連なって主に仕え、主の名を愛して、そのしもべとなった異国の民が、みな安息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を堅く保つなら、わたしの聖なる山に来させて、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。…なぜならわたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれるからだ。』」
 神様は、誰もが心から神様に祈り、礼拝することが出来ると、全ての人を招いておられるのです。今、私たちは、イエス様によっていつでも神様の御前に出て祈ることが出来ます。私たちは、心からの祈りをささげ、主を礼拝しつつ信仰をもって日々過ごしましょう。

Ⅱ;心からの賛美をささげよう

 私たちは、心からの賛美をささげましょう。
 イエス様が、異邦人の庭で宮きよめを行った時、売り買いしている人たちは、慌てて神殿を後にしました。両替人の台が倒されるわけですが、お金が地面にばらまかれたことでしょう。鳩を売る人たちの腰掛も倒されたので、もしかしたら一斉に鳩が飛び立つという事があったかもしれません。その場が、大混乱になった様子を想像することが出来ると思います。大混乱の異邦人の庭を外側から気にしていた人たちがいました。それは、目の見えない人たちや足の不自由な人たちです。彼らは、神殿には入ることが許されていませんでしたので、恐らく神殿の入り口にいたのでしょう。彼らは、異邦人の庭が大混乱になっている様子を見ていました。その時彼らは、「わたしの家は祈りの家と呼ばれる」というイザヤ書の言葉を大声で叫ぶイエス様の声を聞いたのです。彼らは、「わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる」という神様の預言の言葉を知っていました。今その預言が成就する時がやって来たのです。だから目の見えない人たちや足の不自由な人たちは、恐る恐る神殿に足を踏み入れました。私は、彼らが恐る恐る中に入ったのだと想像します。

 私は、学生時代東京の教会に通っていました。ある時、一人の青年が青年会のメンバーを自宅での食事に招いてくれました。青年会のメンバーと待ち合わせをして彼の家に移動します。向かう先は、高級住宅街と言われる地域でした。青年会のメンバーは、その日尋ねる家の事を教えてくれました。彼のお父さんはお医者さんで、超有名なプロスポーツ選手が治療にやって来るスポーツ整体院と言うのです。私は、それを聞いてビビりました。私は、教会員の家に行くという事で気軽に出かけてきました。当時の私の服装は、擦り切れたジーパンにヨレヨレのシャツです。電車で移動しながら私は、こんな格好で尋ねて良いのだろうかとなんだか恥ずかしくなって不安になりました。彼の家について見ると、お父様は快く迎え入れてくれて楽しく過ごすことが出来ました。
 私たちは、普段と違う空間に入っていくとき緊張するものです。目の見えない人たちや足の不自由な人たちは、神殿に入るとき緊張したと思います。彼らは、恐る恐るであったと思いますが、神殿に一歩足を踏み入れ、イエス様に近づいたのです。イエス様は、彼らを追い返すことはせず、彼らを癒されました。彼らの喜びと感謝の声と神様を賛美する姿を想像することが出来るでしょうか。

 それだけではありません、イエス様の近くでは子どもたちが賛美するのです。子どもたちは、ろばの子に乗ってエルサレムに入城するイエス様を喜び迎えた群衆の賛美を歌います。大人たちは、異邦人の庭での騒然とした雰囲気に飲み込まれてしまって「ホサナ!」と喜び迎えたことを忘れてしまったのでしょうか。マルコの福音書11章のようにイエス様が一晩おいて神殿の宮きよめを行ったとしたら、子どもたちは、前の日の喜びを持ち続けているという事になります。子どもたちは、純粋に神の子イエス様を「ダビデの子にホサナ」と賛美するのです。
 それを快く思わないのは、祭司長たちや律法学者たちです。実は、彼らは異邦人の庭で行われていた商売で相当な利益を得ていたようなのです。ですからイエス様の神殿での行為によって彼らは、大恥をかかされたことになりました。そのうえ、神殿の中で癒しを行うし、子どもたちは「ダビデの子にホサナ」と叫んでいるのです。祭司長たちは、子どもたちに対して腹を立てて、「子どもたちがなんと言っているのか聞いているのですか」と文句を言いました。これは、「子どもたちは、あなたの事をメシア(救い主)と賛美しているが、あなたは自分を神とするのか。そんなことが許されると思っているのか」ということでもあるのです。
 この文句に対してイエス様は、「幼子たち、乳飲み子たちの口を通して、あなたは誉れを打ち立てられました。」と詩篇8篇2節を引用して答えました。これは、神様が子どもたちの口に賛美を与えて、栄光を現されるということです。イエス様は、「まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません(マタイ18章3節)」を言っておられました。私たちは、子どものように素直な心、柔らかい心で神様を信じ、心からの賛美をささげることが大切なのです。イエス様は、そのような人たちを喜び、迎え入れてくださいます。

 私たちは、日曜日に礼拝のために集まっています。私たちは、どのような姿勢で主を礼拝しているでしょうか。私たちは、日々、どのように主の御前を歩んでいるでしょうか。もし私たちの心が落ち着かず、混乱しているのならば、心の真ん中にイエス様にいてもらいましょう。イエス様は、私たちの心を静めてくださいます。私たちは、私たちに注がれている神様の恵みを忘れず、イエス様の愛を思い巡らしましょう。そこには喜びの賛美が溢れます。私たちは、心からの祈りと賛美を主にささげつつ歩みましょう。

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。イエス様は、神殿が祈りの家と呼ばれると教えてくださいました。またイエス様は、子どもたちの賛美を受け入れてくださいました。
 私たちは、心から主に祈り礼拝をささげます。また私たちは、心から主を賛美し御名をほめたたえます。神様、私たちの口に祈りの言葉を与え、賛美の言葉を与えてください。そのようにして主の栄光を現す者とならせてください。
 この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」