2024年1月7日(日)礼拝説教 マタイの福音書5章1-12節 「幸いな人生とは」 説教者:赤松勇二師

<子どもたちへ>
 冬休みも明日で終わり、今週は3学期が始まりますね。冬休みは、クリスマスがあり、大晦日、お正月がありました。皆にとっては、幸せで特別な時間の連続だったことでしょう。でもそれも終わりで、冬休みの宿題や3学期という現実が目の前にあります。幸せ気分は、減少していくでしょうか。3学期が守られるように祈ります。
 ある時、イエス様は、ガリラヤ湖の近くの山の上で弟子たちをはじめ多くの人たちに教えました。イエス様の周りには、イエス様のお話しを聞きたい人やイエス様に病気を治してもらいたい人たちなど、いつも多くの人たちが集まっていたのです。そういう人たちに向かってイエス様は、大切な事、幸せな人生とは何かをお話しになりました。

 イエス様は、言われました。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。…。柔和な者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。」
「心が貧しい者は幸い?」弟子たちをはじめ聞いていた人たちは、「どういうこと??」と不思議がります。
「心が貧しい」というのは、何でも自分で出来る人でも、あれもこれも持っていると自慢する人でもありません。「心が貧しい」と言うのは、自分は弱くて、神様の助けがないと生きていけないと知っている人のことです。「心が貧しい」と言うのは、決してダメな事ではなく、神様の助けを受けるために必要な事なのです。神様は、心から神様の助けを必要としている人を助け、たくさんの祝福(良いこと)を与えてくださるのです。それが「神の国はその人のもの」という意味です。

 またイエス様は、「あわれみ深い者は幸いです」と言われました。「あわれみ深い人」と言うのは、人の痛みを理解して、その人に寄り添って励ますことが出来る人の事です。皆は、どうでしょうか?
 僕は、中学2年生の時、クラスの男子から無視されるということがありました。ある日の朝、学校に行って皆に「おはよう!」と声をかけても誰も返事をしてくれないのです。僕は、何がなんだか分からず、戸惑いながら寂しい気持ちになりベランダにいました。すると一人のクラスメイトが僕の所に来て「赤松ゴメン」と言ってくれたのです。友達は、「今日は、赤松の番なんだ」と無視された理由を教えてくれたのです。誰が言い出したのか分かりませんが、僕のクラスでは、その時期毎日誰か一人を無視するということが流行っていました。その日の朝、それが僕になったわけです。それを僕に教えてくれた友達は、次にターゲットにされてしまう可能性がありました。でも友だちは、そんなことよりも、僕の寂しい気持ちに気づいて声をかけてくれたのです。そのような心が大切だとイエス様は言われました。

 そして何よりもイエス様ご自身が、僕たちに寄り添ってくださるのです。イエス様は、僕たちが弱い時に近づいて助けの御手を指し伸ばしてくださいます。イエス様は、僕たちのために十字架に死んで、罪の赦しを与えてくださいました。それだけではなく、イエス様はよみがえって信じる全ての人に永遠の命を与えてくださるのです。イエス様は、いつも僕たちと一緒にいて助け、励まし、力づけてくださるのです。このイエス様のあわれみに満たされ、僕たちもあわれみ深く人に接することが出来ます。
 イエス様が、山の上でお話になった事は、僕たちの心の問題です。僕たちの心がイエス様に導かれ、イエス様の愛に満たされる時、僕たちは、本当の幸せ、神様からの良いものに満ち溢れます。その時、僕たちは、生きる力、勇気が湧き上がってきます。イエス様に満たしていただきましょう。

 いよいよ3学期が始まります。イエス様がみんなと一緒にいてくださることを信じ、心にイエス様から幸いを受け取りながら祈りつつ歩みましょう。

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。イエス様が僕たちと一緒にいてくださり、祝福を与え、恵みを与え、慰め、励ましてくださることを感謝致します。イエス様、僕たちに幸いを与えて導いてください。
 神様、3学期が始まる一人ひとりの歩みを導いてください。能登半島で大きな地震がありました。避難生活をしている人たちを神様が守ってください。この祈りをイエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」
                                マタイの福音書5章3節

<適用>

2024年が始まって1週間となりました。今年の新年は、ビックリするような出来事で始まったと言ってよいのではないでしょうか。1日の夕方、能登半島で地震があり、大きな被害が出ています。また次の日には、羽田空港での飛行機事故がありました。関係するすべての人たちに神様の守りがあり、慰めがあるように祈りましょう。
 私たちの人生では、実に様々なことが起こります。そのような人生で私たちは、どのように幸せを見出すことが出来るでしょうか。イエス様は、山の上でそのことを、弟子たちに教えられました。有名な山上の「八福」の説教です。ギリシャ語の聖書では、「幸福である」という言葉が文頭に来ているので、イエス様が「幸せ」ということを強調していることが分かります。詳訳聖書では「うらやましいほど幸福である」と訳しています。この教えの中に、私たち人間が求めるべき幸せがあります。

Ⅰ;神様による逆転劇

 私たちは、幸いな人生を歩むことが出来ます。この幸いな人生は、主なる神様から与えられるものであり、それは、神様による逆転劇とも言えるのではないでしょうか。
 イエス様は、幸いな人とは、どのような状態の人であるかを教えておられますが、それは一見するとすぐには理解できない言葉かもしれません。イエス様がここで教えていることは、人が幸福だと感じる価値観とは違うからです。まずイエス様は、「心の貧しい者、悲しむ者」が幸いな者だと言われました。並行箇所であるルカ6章20~23節でも同じことが書かれています。

「貧しい人たちは幸いです。神の国はあなたがたのものだからです。今飢えている人たちは幸いです。あなたがたは満ち足りるようになるからです。今泣いている人たちは幸いです。あなたがたは笑うようになるからです。人々があなたがたを憎むとき、人の子のゆえに排除し、ののしり、あなたがたの名を悪しざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。その日には躍り上がって喜びなさい。見なさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。彼らの先祖たちも、預言者たちに同じことをしたのです。」

 イエス様が言われる「貧しさ」とは、富や財産なとがない状態のことを言っているのではありません。イエス様は、私たちの心の状態が問題であると言っているのです。外見だけが豊かになっても、本当の幸せではありません。心が豊かにされなければ、いつになっても満足は得られません。「心の貧しい者」というのは、自分は神様の前に小さな者であることを知っている人のことです。ある人は、この箇所を「心を空にする」ことだと説明しています(山上の説教 上巻)。私がコーラス隊で腹式呼吸のことを教えてもらった時のことです。まず、呼吸の仕方から学びました。まず肺を空気で満たすことが必要です。深呼吸をする時にまずすることは、肺の空気をすべて吐き出すことでした。すべての空気を吐き出して、空気を吸うと肺にいっぱいに空気を送り込むことが出来、息が長く続くこととなります。肺を空にしないと、十分に空気を吸い込むことが出来ないのです。

 「心を空にする」というのは良い表現だと思います。これは、心を無にしていくような無心ではありません。神様の恵みを受けるためにすべてを神様に明け渡していくことです。私たちが、自信満々で心が自分の力で満ち溢れているとしたら、神様の恵みが注がれる余地はありません。しかしもし、私たちが自分の力に拠り頼まず、神様の導きが無ければ生きていけないと認めるなら、私たちは神様の恵みを心一杯受けることが出来るのです。リビングバイブルは、マタイ5章3節を「心の貧しさを知る謙遜な人は幸福です。」と訳しています。「心の貧しい者」とは、神様なしでは生きていけなくて、神様こそ自分の全てであることを認めて、神様に近づく人という事です。そのような人は、本当に幸せなのです。なぜならば、そのような人を神様は喜んで受入れてくださり、天の御国を約束してくださるからです。そのような人は、地上にあって神様の支配の中に守られて生きることが出来ます。

 「悲しむ者」について、私は、以前のメッセージで悲しむことを「心の問題」だけのことのように話していたかもしれません。しかしルカの福音書の「今泣いている人は幸いです(6:21)」、リビングバイブルの「悲しみ嘆いている人は幸福です。」をあわせて読むと、「悲しむ者」とは、まず様々な事柄の中で痛み悲しみ涙を流している人と受け止めることが出来ます。神様は、悲しむ人、傷つき痛んでいる人を慰め、励ましてくださいます。そしてもう一つの意味は、「心の貧しい者」と同じように心の内側の問題です。「悲しむ者」とは、自分が神様の御前に罪人であることを認め、その罪を悲しみ心から悔い改める人のことなのです。神様は、そのように心から悔い改める人の罪を赦し、慰め、導きの御手を差し伸べてくださいます。

 私たちの社会は、貧しさや悲しみ嘆きを否定し、弱さや失敗を認めない社会です。人々は、弱さを見せないように、自分がだめな人間だと思われないように、必死に頑張って隠そうとします。そこには、良いものは生み出されず、慰めもありません。同じようにもし私たちが、神様の御前に強がり、自分の罪を認めず、必死にそれを隠しているならば、神様からの本当の救い、恵み、慰めは与えられません。
 ここに逆転劇が起こるのです。神様はマイナスをプラスに変えてくださるのです。私たちが自分の弱さを認め、自分がどれほど罪深い者であるのかを告白し、心から悔い改めるなら、私たちは神様からの本当の祝福、本当の(うらやましいほどの)慰めを受けることが出来ます。
 マタイ5章11-12節の「迫害」についても神様による逆転劇が起こります。私たちが、信仰のゆえに迫害を受ける時、神様は天の御国への約束を確かなものとして示してくださるからです。神様への信仰を人々から否定されたり、笑われたりする時、天の御国では、地上の迫害に勝る大きな神様からの報いがあるのです。

 私たちは、日々神様からの逆転劇を受け取りながら、幸いな人生を送ることが出来ます。今ある状況は、神様による幸いへとつながっていることを信じて歩みましょう。

Ⅱ;イエス様によって可能

 私たちが、幸いな人生を送るのは、私たちの力では無理なことです。それは、イエス様によって可能になります。
 先ほど、本当の幸福は、何かを持っているという事ではないと言いました。しかし、多くの人は、富を、物を、学歴・高い地位を得ることが幸せだと考えています。だから、人々は、「セレブ」と言われる人に憧れ、有名人の持っているブランド品で身を飾り、生活スタイルの真似をするのです。私は、何も富とか高い地位を求めてはいけないと言っているのではありません。しかし、それが全てとなってしまってはいけないのです。もしこの世の富を得ることが幸せなら、芸能人はみんな幸せだという事になります。大企業の社長や会長は幸福な人だという事になります。人の目には、そのように見えるかもしれません。けれども本当にそうなのでしょうか。芸能人は、売れなくなることを心配しながら仕事をしています。大企業の社長は、会社の業績を心配し、多くのストレスの中にいるのではないでしょうか。

 ある時一組の親子の会話が耳に飛び込んできたことがありました。聞き耳を立てていたわけではないのですが、聞こえてきたのです。息子が「将来はお父さんのように社長になる」と自分の夢を話していました。するとお父さんは、「止めたほうが良いよ。社長になってもストレスがあるだけで大変だから」みたいな返事をしていました。私は、聞こえてくる会話を聞きながら、このお父さんは、なんて夢のないことを言うのだろうか、と思いました。でも、それが社長をしている人の実感なのだろうとも思いました。

 富を多く持っている人は、その時は幸福感を得ることが出来るでしょう。しかし、お金は使えばなくなります。富がすべてと思う人は、自分の生活を維持するために、いつでも富を追い求めることとなり、その欲求には終がありません。この様にして、人は、自分の願望を満たすことに一生懸命になるのです。けれどもそこには、心の平安を見出すことが出来ません。
 だから、最初に見たように、私たちの幸い、祝福は、主なる神様から与えられるという事に心の目を向けるべきなのです。そしてさらに、イエス様によって可能になるということを知っておくことが大切です。5節、6節のように「柔和な者」とか「義に飢え渇く者」というのは、私たちが自然と身につけられるようなものではないと思います。「柔和な者」というのは、他に「穏やかな、忍耐深い、しんぼう強い人」と訳すことが出来ます。柔和な人は、神様の愛を身に帯びて、愛の心、優しい心を持つ人のことです。そのような人に神様はご自身を現し、この地上で主の栄光を現すことができるようにしてくださいます。「義に飢え渇く」とは、自分の歩みが神様の義(正しさ)によって満たされること、この世界が神様の義によって支配されることを熱心に求める人の事です。そのような人に、神様はご自身の義を示して、豊かに、溢れるほどに満ちたらせてくださいます。

 「あわれみ深い者(7節)」とは、言葉の通り、人に対して憐れみを示すことが出来る人、憐れみを注ぐことが出来る人のことです。「心のきよい者(8節)」とは、一心に神様を求め、誠実にそして忠実に神様に従うことを願う人のことです。先ほどと同じように、私たち人間は、「憐れみ深くあること」、「心のきよいこと」という性質を持ち合わせてはいません。私たちは、憐れみがどのようなものかを知らなければ憐れみを現すことは出来ないし、神様を知らなければ、神様を求めることも出来ないのです。「平和をつくる(9節)」ことも人間の持っている価値観では無理なことです。人は、皆それぞれ違う価値観を持っていますから、平和を築こうとしても、そこには衝突が生じてしまうのです。国際情勢を見れば良く分かるのではないでしょうか。それぞれの国が、自国の利益のための平和を求めています。それは相手国の平和を脅かすこともなる可能性があります。簡単に言ってしまいましたが、難しい要素が含んでいることも承知しています。

 でもこれらの事柄、柔和で、義を求め、憐れみ深く、心のきよさを求める事を可能にする方法があります。それが、「イエス様を信じる」信仰によって生きる、生き方です。イエス様は、私たちの罪が赦される道を用意してくださいました。私たちは、本来なら、神様の憐れみを受ける資格がなく、罪の赦しを得る資格のない者でした。聖書は、神様を信じないこと、神様を無視し、自己中心に生きていることを罪だと教えています。「罪」と訳されている言葉は、「的を外す」と言う意味があります。私たちは、生まれながらにして、神様の愛と神様の義という的を外して生きています。イエス様は、そんな私たちの罪の身代わりに十字架にかかってくださいました。私たちは、罪を告白し、イエス様の救いを信じる信仰によって、罪赦され、救いを受けることが出来るのです。これ以上の憐れみはありません。私たちは、この素晴らしい神様の憐れみ深さを知ることによって、「あわれみ深い者」となることが出来るのです。これだけでも幸福だと思いますが、憐れみ深い者には、さらなる神様の憐れみが注がれもっともっと憐れみ深い者となることが出来るのです。

 そして私たちは、イエス様の救いによって、神様を知ることができ、神様の教えを知ることが出来ますから、一心に神様を求めることが出来ます。すると神様は、ご自身の御心を私たちに教えて、導いてくださり、私たちは、神様を見るように生きると事が出来ます。そしてさらには、私たちは「平和をつくる者」へと変えられるのです。私たちは、イエス様の十字架の救いによって神様と和解し、本当の平和を与えられています。私たちは、神様から与えられる平和によって、平和をつくる者へと変えていただくことが出来るのです。だからそのような人は、神の子どもと呼ばれるのです。

あなたは、イエス様からの平和を受けていますか。イエス様によって心が満たされていますか。あなたの心には、憐れみ深さ、柔和さはあるでしょうか。私たちは、イエス様によって幸いな人生を歩むことが可能になります。
 イエス様が、教えてくださったことは、私たちが生きる上でとても大切な事柄です。私たちは、神様からの祝福を与えていただくために、心を神様に向け、心の内側の点検をしていきましょう。また私たちは、人とのかかわりが豊かにされるために、心を神様に向けましょう。神様は、私たちに素晴らしい祝福、うらやましいどの幸いを与えてくださいます。

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。『幸いなるかな』とイエス様は、大切なことを教えてくださいました。私たちの人生には、神様による逆転劇があり、私たちはあらゆる状況の中でも神様からの祝福を与えられ、慰め、あわれみを受けることが出来ることを感謝致します。
 そして私たちは、イエス様によって幸いな日々を過ごすことが出来、あわれみ深く、心をきよく保ち、平和をつくる者へと変えていただけることを感謝致します。神の子どもとして歩み主の栄光を表すことが出来るように導いてください。
 神様、能登半島地震で被災された方々を慰め、励ましてください。救助作業、復興作業をしている方々を守ってください。神様の平和と恵みでこの地が満たされますようにとお願い致します。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」