2024年2月18日(日)礼拝説教 マタイの福音書20章17-28節 「謙遜に仕え合う」 説教者赤松勇二師

<子どもたちへ>

 皆は、自分のクラスの中で誰が一番偉いと思いますか(担任以外で)? 学級委員長でしょうか? その他、クラスの中では誰が一番かと比べることも多いと思います。一番成績の良いお友達や一番足が速いお友達、一番力持ちのお友達等々です。競争心をもって取り組むのは良いことなのですが、「一番」となり自慢し、他の人を見下すようなことがあっては問題ですね。
 イエス様の弟子たちの間でも、「誰が一番か」ということが話題となりました。というか、12人の弟子たちは、時あるごとに「12人の中で誰が一番偉いのか」という事を議論していたようなのです。

 ある時イエス様は、エルサレムの町へ向かっていました。イエス様は、道を進みながら弟子たちにエルサレムでイエス様の身に起こる事を予告しました。「これからわたしたちはエルサレムに向かいます。そこでわたしは祭司長たちや律法学者たちに捕まり死刑に定められるでしょう。そしてローマ人に引き渡されて、馬鹿にされ、むちで打たれ、十字架につけられます。けれどもわたしは、三日目によみがえります。」イエス様の十字架の予告はこれで3回目です。実は、エルサレムにいるユダヤ人指導者たちの間では、どのようにしてイエス様を捕まえて処刑しようかと話し合われていたのです。弟子たちも、イエス様が狙われていることを知っていました。だから弟子たちは心配していましたが、イエス様の言っておられることの全てを理解することは出来ませんでした。ただ一つ分かっていたことは、イエス様がエルサレムで神様の栄光を現すという事でした。そしてそれは、イエス様がユダヤの王国を立ち上げてくださるだろうということでした。

 すると弟子のヤコブとヨハネが、お母さんと一緒にイエス様のところに来ました。お母さんが言います。「イエス様、お願いしたいことがあります。イエス様が立ち上げる王国で、二人の息子をイエス様の右と左に座らせてもらいたいのです。」これは、ヤコブとヨハネを12弟子の中で1番と2番にしてくださいというお願いです。イエス様は、「あなたがたは何を願っているのか分かっているのですか?それはわたしが決めることではなく、父なる神様が決めることです」と答えました。
 このことを知った他の10人の弟子たちは、「なんてことだ。ヤコブとヨハネは俺たちに相談せず、自分たちだけでイエス様に話に行ったぞ。」と怒り出しました。そして、「1番は俺だ、いや自分だ」と言い合いが始まりました。

 これに対してイエス様は、12弟子を集めて大切な話をしました。「なぜそんな言い合いを始めているのですか。あなたがたは偉くなりのですか?偉くなりたいと思うならば、俺が一番だなどと威張って自慢するのではなく、皆に仕えるしもべになりなさい。」と言われました。そしてイエス様は、「わたしは、(人の子)は、仕えられるためではなく、人々に仕えるため、そして多くの人が罪赦され救われるために、いのちを犠牲にするために来ました。」と言ってくださったのです。これは、イエス様を模範として周りの人たちを大切にし、仕え合うようにしなさいという事です。イエス様は、神様なのに神様としての力を自慢せず、高慢にならず威張らず、へりくだって身を低くして人々に仕えておられました。そして僕たちの救いのために十字架にかかって命を捨ててくださったのです。イエス様は、死んで終わりではなく三日目によみがえり、今も生きていて僕たちを守り、支えてくださっています。
 イエス様は、僕たちがお互いに支え合い、仕え合い、兄弟やお友だちと仲良くすることを喜んでくださいます。

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。弟子たちは、誰が一番かといつも言い合いをしていました。イエス様は、互いに仕え合いなさいと教えてくださいました。イエス様、僕たちが、兄弟やお友だちと仲良くし、威張らず相手のことを考えて行動することが出来るように力を与えてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

「あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。」マタイの福音書20章26節

<適用>
 格闘技をやっていた人の体験談です。その人は、格闘技をはじめて早く道場の床磨きや掃除をしたいと思っていたようです。普通ならば、新人が道場の掃除をして上級者が威張っている様子を想像します。格闘技の世界では、誰もが技を磨き、極め、自分の階級を上げたいと懸命になります。階級が上がれば、上級者として優遇される面もあるのだろう思います。しかし彼の通っていた道場では、床磨きや掃除をするのは上級者のすることだったのです。掃除をしている人は、上級者と言う印でした。だから、彼は、誰よりも掃除をする者になりたいと願っていたのです。どうして上級者が掃除をするのかその理由は、階級が上がり力をつけるようになっても高慢にならず、へりくだることを忘れないためという事でした。
 人は、気をつけていないと、「謙遜」とか「へりくだる」とか「仕え合う」ということを忘れてしまう事があるかも知れません。イエス様の言葉に耳を傾けましょう。

Ⅰ;誰よりも上に立ちたい

 「謙遜に仕え合う」ことを求められた12弟子たちは、誰よりも上に立ちたいと考えていました。しかもイエス様がご自身の十字架について予告し始めた時から頻繁に議論するようになったのです。マルコの福音書ではイエス様が2回目に十字架の予告をした時のことが書かれています(マルコ9章30-35節)。
「さて、一行はそこを去り、ガリラヤを通って行った。イエスは、人々に知られたくないと思われた。それは、イエスが弟子たちに教えて、『人の子は人々の手に引き渡され、殺される。しかし殺されて三日後によみがえる』と言っておられたからである。しかし、弟子たちはこのことばが理解できなかった。また、イエスに尋ねることを恐れていた。」弟子たちは、イエス様が語るエルサレムで起こる出来事についてすべてを理解できないでいました。理解できない弟子たちでしたが、彼らは、イエス様がエルサレムですることと言えばメシアとしてユダヤ王国を再興することだろうと決めつけていたのです。だから弟子たちは、イエス様と一緒に移動している間あることを議論していたのです。イエス様が歩きながら何を議論していたのかと聞かれた時、彼らは答えることが出来ませんでした。マルコ9章34節には、「彼らは黙っていた。来る途中、誰が一番偉いか論じ合っていたからである。」と書かれてあります。

 同じ状況での弟子たちの様子をマタイは、もっと直接的に書いています。マタイ18章1節には「そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。『天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか。』」という弟子たちの質問が書かれてあります。イエス様が、エルサレムで苦しみを受けて十字架につけられるという予告が語られているにもかかわらず、弟子たちは12人の中で誰が一番偉い地位に就くことが出来るのかに興味があったのです。弟子たちは、イエス様のお考えを思い巡らすことが出来ませんでした。ユダヤ人たちは、約束の救い主メシアは、ローマ政府を倒してユダヤ王国を確立してくれると考えていました。それは弟子たちも同じです。だから弟子たちは、イエス様がメシアとしてユダヤ王国を樹立する時が近づいていると考えたのです。そこで気になったのが、イエス様が国王となるならば、その次に座を得るのは誰なのかと言うことでした。彼らは、自分のことしか考えず、12弟子の中での自分の立ち位置を気にしていたのです。イエス様は、折に触れ、仕え合うということを教えておられました。誰が一番偉いのかと言う議論をしていた時には、子どものように受け入れるのでなければならないと言われました。そして「だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい。(マルコ9:35)」と言われました。それでもやはり弟子たちの心からは、誰が一番なのかという考えは消えることがありませんでした。

 それは、「誰よりも上に立ちたい」という気持ちの現われです。競争心と言えば響きは良いかもしれません。確かに競争心がなければ人は上達もないでしょう。また、健全な競争心は良いライバル関係を築くことが出来るかもしれません。けれども、私たちの競争心というのは、いつの間にかエスカレートして、刺激を与え合い支え合うのではなく、相手を蹴り落として相手の上に出ることだけが目的となるものです。その逆のことは、自分をことのほか卑下したり、相手を批判したりすることです。これは相手を立てているようで、仕え合うことにはならないものです。
 振り返って私たちは、どのような態度を示すことが多いのでしょうか。

Ⅱ;仕える者の姿勢(ピリピ2:1‐9)

 イエス様は、謙遜に仕え合うためには、「仕える者の姿勢」が大切だと教えてくださいました。
 そのことを見る前に、ここで、ヤコブとヨハネの母親が、「御国では息子たちを右と左に座らせてやってください」と言った時のイエス様の言葉に目を向けましょう。イエス様は、ヤコブとヨハネに「わたしが飲もうとしている杯を飲むことが出来ますか」と尋ねました(マタイ20章22節)。これは、イエス様が受けようとしている苦しみを受けることが出来るかと言う問いかけです。彼らは、よく考えもせず「出来ます」と答えました。そしてイエス様は、「あなたがたはわたしの杯を飲むことになります。(マタイ20:23)」と言われました。イエス様は、ヤコブとヨハネがイエス様と同じ苦しみではないにしても、神様の御名のために迫害され、苦しみを受けることになると言われたのです。彼らは、その通りになりました。ヤコブは、12弟子の中で最初に殉教することとなり、ヨハネは迫害を受け、最終的には島流しの刑にされてしまいます。それだとしても、イエス様の右と左に座るのは、父なる神様の権限で定められることとなります。

 12弟子は、いつも誰が一番かを議論していましたので、他の10人は抜け駆けをしたヤコブとヨハネに対して腹を立てました。この様子を見てイエス様は、12弟子を呼び集めて大切なことをお話になりました(マタイ20:25~)。この世の権力者、支配者は人々に対して横柄に振る舞うことでしょう。地位のある人は、自分の地位を利用して権力を振るいたいと考えるものです。そのようにして上に立つ人は、下の者を踏みにじることがあるものです。残念ながら、現代も同じような構図となっています。これがこの世の中の力関係とでも言うのでしょう。
 イエス様は、「あなたがたの間ではそうであってはなりません。(マタイ20:26)」と言われ、「偉くなりたいと思うなら、皆に仕える者になりなさい。」と言われました。イエス様は、「偉くなりたい」という弟子たちの気持ちを否定はしませんでした。けれどもイエス様は、この世の価値観で偉さを求めるのではなく、神様の価値観、神様の尺度で偉さを求めることを教えてくださったのです。「偉くなりたい」と思う価値観は、皆の上に君臨し権力を振るうことではなく、皆に仕える者になることなのです。

 私たちがこれまで出会って来た人たちのことを思い出してみてはいかがでしょうか。私たちが出会って来た人たちの中には、「誰よりも上に立ちたい、人よりも優位な立場になりたい、出世して偉くなりたい」と必死に生きてきた人、生きている人が多いでしょう。そしてその中には、上に立つことが目的となり、威張り、横柄になり、高慢になる人も少なくはないでしょう。「誰」と具体的に名前と顔を思い出さなくて結構ですが、このような人がいたのではないでしょうか。もしくは、自分自身がそのような考えになっていたことがあるかもしれません。
 高慢になり、自分の知識や力を自慢する人は最初のうちは人々の関心を集めるでしょうけれども、時間と共にその人の求心力は失われてしまいます。それよりも、地位や名誉を得てもなお、威張らず自慢せず、身を低くして歩む人がいます。人々は、そのような人に心惹かれるのではないでしょうか。

 イエス様は、偉くなりたいなら、皆に仕える者になりなさいと言われました。そしてイエス様ご自身が、仕えられるためではなく、仕えるために来たと言われました。その究極的な姿が、人々が罪赦され救いを受けるためにいのちを犠牲にするという十字架の死と復活のみわざです。ここに謙遜に仕える者の姿があります。パウロは、ピリピ人への手紙2章の中で「何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。」と言い、それこそイエス様のうちに見られるお姿だと示しています。
「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。(ピリピ2:6-8)」
 イエス様は、神であるのに神としてのあり方を捨てて人間と同じようになられました。それは、私たちの罪を背負い、十字架で神様の罰を受けるためでした。イエス様は、へりくだり、私たち人間に仕え、いのちを捨ててくださったのです。パウロは、このイエス様の姿に倣うべきだと勧めています。そしてイエス様自身も「人の子が仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。(マタイ20:28)」と命じています。これは、イエス様が私たちのために謙遜に仕えてくださったように、私たちも謙遜になり、お互いのために仕え合う生き方をするようにと言うことです。

 これは窮屈な生き方なのでしょうか。割に合わないことなのでしょうか。この世的にはそうかもしれません。しかしパウロは何と言っているでしょうか。ピリピ2章9節で「それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。」と言っています。イエス様は、へりくだり、仕える者としてご自身のいのちを捨てられたからこそ、神様はイエス様を高く上げ救いを成し遂げ、すべての名にまさる名をお与えになったのです。こうも言われています。「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる(Ⅰペテロ5:5)。」へりくだり、謙遜に仕え合う生き方は、窮屈な割に合わない生き方ではなく、神様の祝福と恵みが約束された生き方なのです。私たちは、イエス様が示してくださったように、謙遜になり互いに仕え合う者となりましょう。

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。弟子たちは、自分こそ一番だと思い続け、イエス様の言葉を理解することが出来ませんでした。イエス様、私たちの心にイエス様の持っておられた謙遜、へりくだる姿勢をお与えください。私たちが、謙遜に仕え合い、主の栄光を現すことが出来るように助け導いてください。
 神様、一人ひとりの健康と歩みを守り導いてください。健康を試みられている方々の上に神様の癒しの御手を差し伸べてくださり、速やかな回復を与えてください。
 能登半島地震で被災された方々を守り支えてください。復興、復旧にあたっている方々を支えてください。
 世界中の紛争地域にあっては、一刻も早く武力衝突が終わり、平和が与えられるようにとお願いします。
 この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」