2024年3月3日(日)礼拝説教 マタイの福音書26章14-30節 「最後の晩餐」 説教者:赤松由里子師

<子どもたちへ>
 皆さん、教会の聖餐式を見たことがありますか?教会学校中心に出ていた人は、案外見たことがないかもしれませんね。小さく切ったパンと、小さなグラスで配られるぶどうジュースの式、と言ったらわかるでしょうか。見ていた人は、食べてみたい、飲んでみたい、と思ったかもしれませんね。我が家では、クッキーの型で抜いた食パンと紙パックのぶどうジュースで、子どもたちが聖餐式ごっこをしていたのを思い出します。
 どうしてこのような式をするのでしょうか?それはイエス様が十字架にかかる前の夜、この世でとった最後の食事から来ています。今日はその「最後の晩餐」のお話をします。

 ここはエルサレム。町は過ぎ越しのお祭りのため、多くの人であふれています。イエス様と弟子たちが話しています。「先生、過ぎ越しの食事はどこでしましょうか?」そう、このお祭りでは特別な食事をとることが決まっていました。準備が必要なのです。
 イエス様は言いました。「町に入ってこれこれの人のところに行きなさい。『先生があなたの所で過ぎ越しを祝いたいと言っています。』そう言えば部屋を用意してくれますよ。」弟子たちが行ってみると、言われたとおりになりました。

 夕方になってイエス様と十二弟子は食事の席に着きました。種なしパン(ナンのような平べったいパン)と苦菜、羊の肉、ぶどう酒が並べられました。これは、昔イスラエルの人たちがエジプトから脱出したことを記念するお祭りです。奴隷から救い出されたことを感謝して食事を進めるのです。
 お食事の途中でイエス様は大事なことを言われました。「あなたたちの1人が、わたしを裏切ります」。どういうことでしょう?そこには選び抜かれた十二弟子しかいないはずなのに。みんな悲しく不安な気持ちになって、イエス様に聞きました。「まさか、私のことではないでしょう?」イスカリオテのユダも、みんなと同じように言いました。「先生、まさか私ではありませんよね?」するとイエス様はユダを見て悲しそうに言われました。「いや、あなたです。」食事の途中でユダはそっと外に出て行きました。それは、イエス様を狙っている人たちに会って協力するため。そう、裏切りです。

 過ぎ越しの食事が進んで、イエス様は神様を賛美すると、パンをちぎって弟子たちに分け与えました。「取って食べなさい。これは私のからだです」。またぶどう酒をコップについで言われました。「この盃から飲みなさい。これは人々の罪が赦されるための私の契約の血です」。
 十字架で犠牲となる私の体と流される血が罪からの解放を与えますよ、だから「取って食べなさい」、「このことを信じなさい」と言う意味です。イエス様はこの食事をこれからもしなさい、と言われました。それが今も教会で行われている聖餐式です。
 みなさん、このイエス様の救いのメッセージを是非心に覚えて下さい。イエス様は十字架に死んで、あなたにも罪の赦しと永遠のいのちを与えて下さいます。この恵みを信じて受け取って行きましょう。そして洗礼を受け、一緒に聖餐式に加わって行きましょう。

<祈り>
「神様。今日、礼拝が出来たことを感謝いたします。最後の晩餐のお話から、イエス様の体と血が罪から解放するためだったと学びました。私にもこの恵みをお与え下さい。ちょうど良い時に洗礼を受け、聖餐式に加われますように、お導き下さい。御名によって祈ります。アーメン。」

「これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。」        
                             マタイの福音書26章28節

<適用>
 テレビや雑誌の特集などで「あなたの最後の晩餐には何を食べますか?」というテーマが扱われることがありますね。私などは「あれが食べたいな、あんな場所がいいな、一緒に過ごすのはこの人がいいな」などと日々の生活の延長線上で思い浮かべます。一方で、現実は病院での流動食が最後の食事かな、と思ったりします。どちらにしても人間的な想像に終始してしまいがちです。
 しかしイエス様の最後の晩餐は、過ぎ越しの祭りを背景とした特別な食事でした。そして、ご自分が来られた意味を、弟子たちに鮮明に示すための、目的ある食事でした。
 最後の晩餐に示された事柄はいくつかあります。1つ目はイエス様が弟子の足を洗う「洗足」、2つ目はユダの裏切りの警告、3つ目は聖餐式の制定です。マタイの福音書に記されたのは後半の2つ、ユダの裏切りと聖餐式の制定です。今日はこのところを通して、最後の晩餐で主が伝えようとされたことを学ばせて頂きましょう。

1.悔い改めを求める主

 生涯最後の晩餐には、信じ合える大切な人だけがいてくれればいい、と私たちは思うのではないでしょうか。しかし現実はなかなか難しいものかもしれません。イエス様の最後の晩餐に、十二弟子だけが同席しましたが、そこには裏切り者がいました。イスカリオテのユダです。
 彼はマリヤのナルドの香油注ぎの箇所では、一行の金を横領する盗人だったとありました。またマタイではこうあります。「そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダと言う者が、祭司長たちのところへ行って、こう言った。『私に何をくれますか。この私が、彼をあなたがたに引き渡しましょう。』すると彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。そのときから、ユダはイエスを引き渡す機会を狙っていた。」(26:14~16)。

 彼が得た銀貨30枚とは、どれくらいの価値なのでしょうか。当時の銀貨にはいくつか種類があったと言います。もっとも流通していたシェケル銀貨だと、1シェケルは4デナリに相当し、30シェケルは120デナリとなります。皆さん、思い出して下さい。マリアが捧げた香油の価値は300デナリでした。ユダは香油の半分以下の値段でイエス様を売り渡したということです。また出エジプト記21章32節によれば銀貨30枚とは奴隷の命の代価です。つまりイエス様の価値を、祭司長たちは奴隷と同等に見積もった、ということになります。いずれにせよ、イエス様のお命に対してあまりに不適切な対価でありました。
 ユダはこの銀貨をふところに入れたまま最後の晩餐におりました。そんなユダに、すべてをご存知の主が警告なさったのです。「わたしと一緒に手を鉢に浸した者がわたしを裏切ります。人の子は、自分について書かれているとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るその人はわざわいです。そういう人は、生まれてこなければよかったのです」(23,24)。

 とても厳しいことばです。どう受けとめれば良いのでしょうか。カナダのレスリー・B・フリン牧師は著書の中でこう言っています。「確かに、裏切りは、神のご計画の一部でしたが、ユダは、裏切り者になることを自ら選んだという点で責任がありました。だれかがイエスを宗教指導者たちに売らなければなりませんでした。しかし、そのだれかになる道を選んだのはユダ自身でした。彼は、自分で自分の運命を決めたのです(『十二弟子』/CS成長センター)」。

 イエス様が裏切りをご存知で警告なさった時、ユダには悔い改める道も残されていました。しかし彼は席を立ち、永遠に主に背を向けて去って行きました。
 ユダはいつから変わってしまったのでしょうか。レスリー師は言います。「ユダの悲劇から学び得ることは、転落が長期間他の人々の目から隠されていることがあるということです。その悪は、私たちの心の中で始まり、徐々に進行し、ある日突然、明らかになるのです。」私たちも、主の御前に取り扱われる必要があります。生涯最後の会合でイエス様が期待されたのは悔い改めだった、と言うことを心に覚えましょう。私たちを転落から救うのは、悔い改めの機会を下さる主への応答です。

2.十字架の記念を制定なさる主

 2つ目に覚えたいのは、十字架の記念を制定されたということです。現代の表現でいえば、聖餐式を定められました。ユダヤ民族の過ぎ越しの祭りを越えて、全人類が繰り返し思い返すべきこととして、イエス様の十字架の犠牲を示されました。
 過ぎ越しの起源は出エジプトです。エジプトを裁くため、主の使いがすべての初子を打ちました。しかし子羊をほふってその血を家の戸口に塗った家だけは、災いが通り過ぎました。その犠牲の子羊が示すのは、新しい契約におけるイエス・キリストです。「これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です」(28節)。イエス様が十字架に死なれたのは、あの子羊のように、信じる者を救うためでした。

 イエス様は、十字架に裂かれたご自身の体と流された血を、いつも新たに思い出して欲しいと願っておられます。それは契約であり、必ずイエス様が守って下さる救いの約束だからです。十字架の贖いこそ、イエス様が世に来られた目的です。それを人生最後の食事の席で鮮やかに示されたのが聖餐式でした。聖餐にあずかるとき、私たちは主の最後の晩餐につらなるかのように、主の十字架を思い起こしましょう。そしてその救いが確かであることを確認し続けようではありませんか。

<祈り>
「神様、主の最後の晩餐から学ばせて頂き感謝いたします。主が悔い改めを呼び掛けておられるとき、その御声に応答する素直な心をお与え下さい。また主イエス様が十字架を記念するよう定められた聖餐式を重んじ、御体と血のゆえに救いが確かであることを、いつも確信させてください。御名によってお祈りいたします。アーメン。」