<子どもたちへ>
お友だちと喧嘩をしてしまった時、みんなは、どうしますか?特に自分が相手を怒らせてしまった時は、どうしたら良いでしょうか?仲直りが必要ですね。そのためには、相手に「ごめんなさい。」と謝ることです。
さて、先週お話ししたヤコブは、お兄さんのエサウを怒らせてしまいました。そして「ごめんなさい」と言うこともなく、逃げ出してしまいました。あれから20年が経ちました。この20年の間にいろいろなことがありました。創世記にはそのことが書かれていますが、今回それは省略します。
ヤコブは、20年がたった時、そろそろ自分の故郷に帰りたいと思うようになりました。そんなことを考えていた時、「ヤコブよ。あなたの生まれた家、故郷に帰りなさい。」という神様の声を聞きました。「はい、神様。喜んで従います。」とヤコブは答えます。そして自分の奥さんたちを呼び故郷に帰ることを伝えます。「神様が、自分の故郷に帰るようにと言われた。もう叔父のラバンのもとで働く必要はなくなった。お前たちはどうするか?」と言うことです。奥さんたちは、「神様が、あなたに言われたことをすべて行ってください。」とヤコブの決断に従うことにしたのです。こうして、ヤコブは、家族を連れ、財産のすべてをもって故郷に旅立つことになりまし。ヤコブは、「さあ、みんな準備は出来たか?故郷に向けて出発しよう。」大きな掛け声とともに出発しました。
「あー、いよいよお父さんに会うことが出来る。やっと家に帰ることが出来るんだ。20年前は、何も持たずに孤独な一人旅だったけれど、今は、家族が与えられ、召使いもいて、何よりも牛や羊、ロバなどたくさんの家畜を持つようになった。なんて嬉しいことだろうか!」ヤコブは喜びながら歩きだしました。
そんなことを思い返しながら、ヤコブは徐々に顔が曇ってきます。「そうだ。喜んでばかりはいられない。故郷には、エサウ兄さんがいるじゃないか。20年が過ぎたけれどもお兄さんは、まだ怒っているだろうなぁ~。」ヤコブは、力なくつぶやきます。神様は、不安に押しつぶされそうになっているヤコブを励まし続けてくださいました。そこでヤコブは、使いを出してエサウ兄さんに自分が帰ることを伝える事にしました。すると使いの者が、驚くべき報告を持って帰ってきました。使いの者はヤコブに、「ご主人、エサウ様のところに行ってまいりました。エサウ様は、400人を連れてあなたを迎えに来られます。」と言うのです。
皆さん、エサウと言う人は、外に出て行って獣を捕まえる仕事をしています。と言う事は武器を持っています。エサウだけではなく、400人が武器を持っているのです。一方ヤコブは、家畜を飼う人でありで戦いの武器は持っていません。「これは困ったことになった」とヤコブ、大ピンチです。ヤコブは、不安と恐怖に震え上がり、神様に祈りつつあれやこれやと色々考えました。「そうだ、兄さんに贈り物を上げよう。」「まず、雌やぎ200匹、次に雄やぎ20匹、そして雌羊200匹、雄羊20匹。それでは足りないか?乳らくだ30頭とその子、雌牛40頭、雄牛10頭、まだ足りないな。雌ロバ20頭、雄ロバ10頭だ。これだけ贈り物をすれば兄さんの気持ちも和らぐだろうか?」ヤコブは、440匹と110頭(合計550)の家畜をプレゼントとして差し出すのです(創世記32:13-21)。
けれどもそれでも安心は出来ません。ヤコブは、家族を二つに分けました。ヤコブは、心配と恐怖で逃げ出したい気持ちでいました。そうこうしているうちに、エサウに会う前日になってしました。夜眠れないヤコブは、真夜中に一人静まる時間を持ちました。祈るためです。すると、突然ある人(神の使い)が現れ、ヤコブはその人と一晩中格闘しました。ヤコブは、力の限り闘いますが勝負はつきません。すると神の使いは、ヤコブの股関節(ももの関節)を打って外します。足に力の入らないヤコブですが、それでも手を離そうとはしませんでした。ヤコブは、祝福してくださらなければ手を離さないとしがみつきます。こうしてヤコブは、神様の祝福を得ることが出来、名前も「イスラエル」に変えられました。ヤコブは、この夜中の格闘によって自分の力に頼るのではなく、神様に頼ること、神様が一緒にいて守り支えてくださることを知ったのです。ヤコブは、もう恐れはなく、家族の先頭に立って進みました。こうしてエサウとヤコブは、仲直りすることが出来たのです。
皆にも、どうしたら良いのか分からないことがあるかもしれません。僕たちには、助けが必要だと思う時があります。そのような時は、神様にお祈りしましょう。神様は、皆に力を与えて、励まし、力づけてくださいます。神様が皆と一緒にいてくださり、守ってくれます。
<祈り>
「天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。神様がヤコブを励まし、力づけ、守ってくださったように、今も神様が僕たちと一緒にいてくださることを心から感謝致します。僕たちが不安な時、」神様が守り、導いてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」
「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる。」 箴言3章5-6節
<適用>
私は、献身して教団立の聖書学院に入学するために、それまでの仕事である新聞配達を辞めて入学しました。新聞配達を辞めてから、私はしばらく同じような夢を見ました。その夢とは、新聞配達に遅刻して焦っている夢です。「新聞配達!」と思って目が覚めるのです。でも「あーそうか、新聞配達は辞めたんだ」とまた眠りにつきます。その他にもある時には、新聞配達を無断欠勤している夢を見る時もありました。この夢は、辞めてから数年たっても見ることがありました。夢で見る無断欠勤は2、3日ではなく、数か月間なのです。実際にそんな事があったら大変なことですよね。私は、夢の中で「自分はもう新聞配達を辞めているはずだ。でも所長にはちゃんと伝えてあったかな」と心配しているのです。そして私は、数か月ぶりに新聞配達所に行くのですが、何をどう説明すればよいのだろうかと必死に考えているのです。考えながら、「いやこれは夢だ、夢に違いない」と夢の中で戦っているのです。なんとも疲れる、目覚めの悪い夢です。
ヤコブは、実際にエサウから逃げて20年が過ぎ去っていきました。そしてヤコブは、エサウとの関係が未解決のまま会わなければならないのです。この人生の大問題、危機的状況の中でヤコブは、「主に拠り頼む」と言うことを学ぶことになりました。
Ⅰ;葛藤を経験しながら(創世記32:1-12)
ヤコブは、葛藤を経験しながら、「主に拠り頼む人生」へと導かれていきました。
ヤコブは、ラバンのもとを離れて一路故郷への道を進みます。ヤコブは、神様の導きの中で、ラバンのもとを離れて故郷に帰ることにします。しかし、ヤコブは、」叔父ラバンを信頼していませんから、ラバンには知らせず、こっそりと出発するのです。そのためにヤコブとラバンとの間にひと騒動がありました(創世記31章)。ヤコブは、故郷に帰れる嬉しさと同時に、心が重くなるという現実も抱えていました。それは、先ほど話したように兄エサウのことです。これは避けて通ることの出来ない最大の問題でした。ヤコブは、恐れ迷いますが、前進するしか道は残されていません。創世記32章1-2節は、そのような葛藤と恐れを持って旅を続けるヤコブに対する神様の励ましです。「さて、ヤコブが旅を続けていると、神の使いたちが彼に現れた。ヤコブは彼らを見たとき、『ここは神の陣営だ』と言って、その場所の名をマハナイムと呼んだ。」
ヤコブは、神の使いたちの陣営が自分を取り巻いているのを見ることが出来ました。これは、神様からの「恐れる必要はない」というメッセージです。ヤコブは、再び神様によって力づけられて道を進みます。それでもエサウへの恐れが残るヤコブは、エサウに使いを送り、機嫌を伺います。その結果は、衝撃的なことになりました。エサウは400人を連れて迎えに来るのです。「いや~なんでも、400人は多すぎるでしょう」ヤコブの心の声が聞こえてきそうです。ヤコブは、大きな衝撃とともに少しでも助かるために、すぐに自分の群れを二つの宿営に分けます。
そして、主に祈りました。9-12節。この祈りの中にヤコブが抱えていた矛盾と葛藤があります。私なりにまとめると次のようになります。「神様、あなたは私に生まれ故郷に帰れと命令されました。そして私とともにいると約束までされたではありませんか。言われるままに故郷を目指して進んでいます。神様は、アブラハムに与えた約束のように、私を幸せにし、子孫を増やすと言われたではありませんか。それなのにどうしてエサウは400人も連れてくるのでしょうか。どうかエサウの手から私を助けてください。」。
ヤコブの心には、「神様の導きの通りにしていたのに何でこんな事になるのだろうか。神様の守り、約束はどこにあるのだろうか。」と神様の導きと直面する現実の違いに葛藤を感じていたのです。
私たちもヤコブと同じように、時として、矛盾や葛藤を思えることがあります。神様を信じて歩んでいるのにどうしてこんな事になるのか。神様は愛の神と言うけれども、なぜこの世に愛がないのか。どうして自分だけ苦しみを受けなければいけないのかと思います。
しかし私たちが葛藤や矛盾を感じる時、その多くは、神様からの恵みを忘れている時に感じることが多いのではないでしょうか。私たちが、多くの事柄の中で神様を見失う時、心の安定を失います。ヤコブは、私たちと同じように、「神様どうしてですか?」と思いました。しかし彼は、祈りのうちに共にいてくださっている神様を意識するのです。創世記32章10節の「私は、あなたがこのしもべに与えてくださった、すべての恵みとまことを受けるに値しない者です。」のヤコブの言葉を心にとめましょう。この告白は、私たちの得る全てのものは、神様からの恵と真実であるということです。私たちがどのような状況、どのような道を通るとしても、神様は私たちに恵みと真実を与え続けてくださるのです。以前のヤコブなら策略家として策を練っていくことでしょう。その一面はありますが、ヤコブは自分が感じている葛藤をまず主に祈るのです。そして祈りの中で彼は、神様は自分を捨てることはしなかったこと、自分は受けるに値しない者なのに、神様は惜しみなく恵みを与えてくださったということに気づいていくのです。
私たちも葛藤を経験する中で、祈りに導かれていきます。そしてその祈りの中で、神様は恵みを与え続けてくださり、自分の人生を確かに導いてくださっていたことを知るのではないでしょうか。ですから私たちは、どんなことがあっても主に拠り頼むことが出来ることを覚えていきましょう。
今週の御言葉を一緒に読みましょう。
「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる。」
Ⅱ;主が道を造られる(創世記32:22-32)
私たちは、主に拠り頼む人生を一歩ずつ進めることが出来ます。なぜなら主ご自身が道を造ってくださるからです。
主に祈ったヤコブが次に考えた事は、エサウに贈り物を届けることでした。ヤコブは、神様に祈りつつ自分の出来る最善の事、自分の力で出来ることを考え出して行動していました(13-21節)。彼は、合計すると550もの家畜を用意し、それを一群れずづ贈り物としました。それはエサウの心を何としてもなだめ、ヤコブ自身がエサウのしもべに過ぎないという印象を与えるためです。ヤコブは、神様が共にいてくださることを確認したはずです。また祈りの中で神様の恵みとまことがあることを告白したのです。けれどもヤコブの心には、まだ恐れがあり、不安があり、神様に委ねきることの出来ない思いがあったのです。私は、このヤコブの姿を見ると、ヤコブという人は、本当に人間味あふれる人物であると思うのです。だからこそ私たちは、神様がヤコブを取り扱うことをみて、自分への取り扱いだと知ることが出来るのではないでしょうか。
ヤコブは、知恵を尽くして多くの贈り物を用意しました。でもヤコブは知っていたのです。ヤコブは、自分の力や自分の財産では、心に平安を得ることが出来ないということを。エサウに会う前の晩のことです。眠れないヤコブは、家族が安全に川を渡れる夜のうちに渡らせました(創世記32:22)。そしてヤコブは、ヤボクの渡し場に残りました。心を静めて祈るためです。すると突然、ある人がヤコブの目の前に現れ、ヤコブはその人と格闘する事となりました。後で彼は気づくのですが、その人は、神様でした。
ヤコブは、その人に負けないように一生懸命格闘しました。その人は、ヤコブに勝てないのを見て、ヤコブのもものつがい(股関節)を打ちます。この格闘の中でヤコブは、神様から新しい名前と祝福を頂くことが出来ました。また、彼は自分の力ではなく、主を信頼し主にゆだねることを学ぶのです。
このペヌエルの経験は、ヤコブの人生にとって最大の転機となりました。神様は、ヤコブの葛藤、悩みをご覧になり、励ましと力を与えようとされたのです。ヤコブは、自分の力で格闘し、最後まで自分の力に頼っていたのです。一方神様は、ヤコブが負けてしまはないように力を抑え戦われました。そしてヤコブの自我を打ち砕くために、股関節を打ったのです。神様は、ヤコブが自分の知恵や力で立つのではなく、神様の前にへりくだり、祝福を受け、主に拠り頼む時、本当の平安を得る事が出来ることを教えられたのです。
ヤコブは、この格闘の中で「イスラエル」という名前をもらいました。その意味は、「神と戦う者」と言う事になります。そしてそれ以上に、「神が戦われる」という意味があります。ヤコブは、恐れと不安という葛藤を何とか解決したいと願っていました。そのヤコブが知らなければならなかったことは、神様が戦われると言う事でした。神様は、ヤコブを祝福し、約束と恵みを与え、守ると言ってくださったのです。その神様が、確かにヤコブを導き守り、支えられることを知り、ヤコブは神様の御前にへりくだることが必要だったのです。
人は、苦しみを通る時、矛盾と葛藤を経験する時、実に多くの事を学びます。私たちは、葛藤や矛盾を通り、自分の足りなさ、自我、傲慢さ、弱さを知るのです。と同時に私たちは、神様の前にへりくだること、主に拠り頼むことの大切さを学ぶのです。なぜならば、主なる神様が私たちのために人生の道を造ってくださるからです。今週の御言葉にもう一度見てください。私たちが、自分の知恵ではなく、主に拠り頼む時どうなると約束されているでしょうか。「主があなたの道をまっすぐにされる。」とあります。私たちには曲がりくねって見える道であっても、神様はそこをまっすぐにしてくださり、道を造ってくださるのです。私たちは神様が造ってくださる道をひたすら進むことが出来るのです。このことを信じましょう。
箴言3章6節には、「あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ」とあります。皆さんは、人生の道を導く主なる神様を知っているでしょうか。どのように知っているでしょうか。ヤコブは、エサウに会う前に自分の人生の中で神様がどのようにかかわってくださったのかを振り返っています。ヤコブは主なる神様のことを「私の父の神(創世記31:5)、「ベテルの神(創世記31:13)」、「アブラハムの神、イサクの神(創世記32:9)」と理解しました。そして確かな約束を与えてくださった主と理解していました。ヤコブは、主なる神様を個人的に知っていくのです。
私自身は、私の罪を赦してくださった神様、そのためにイエス様を十字架にかけてくださった神様、私が不安な時に励ましてくださった神様、高校受験を導いてくださった神様、将来のことが分からなくなった時に方向を示してくださった神様、人生の至る時に御手を指し伸ばしてくださった神様、などと表現することが出来ます。
皆さんは、神様をどのように理解し知っているでしょうか。私たちは、誰かが信じている神ではなく、私の神様と知ることが大切です。皆さんが、「主に拠り頼む人生」という素晴らしい日々を送ることが出来るようにと祈ります。
<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。私たちは、ヤコブのように葛藤を経験し、不安と恐れに押しつぶされそうになることがあります。そのような時私たちは、神様に祈ることが出来ますからありがとうございます。私たちは、自力で必死に道を切り開くのではなく、主なる神様に拠り頼むことが出来ます。そして神様は、私たちの人生の道を造り、まっすぐに導いてくださることを心から感謝します。私たちは、自分の悟りに頼らず、神様に拠り頼みます。どうぞ私たちの日々の歩みを導いてください。私たちは、主が造られる道を信仰をもって進みます。どうか力を与えてください。
この祈りを私たちの救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」