2024年6月30日(日)礼拝説教 創世記45章1ー15節 「神の最善を信じて」 説教者:赤松勇二師

<子どもたちへ>
 まず、6月16日(日)のメッセージの訂正をさせていただきます。私は、ヨセフが見た2つ目の夢について「太陽と月と10個の星の夢を見た」とお話をしました。けれども正確には、ヨセフの夢に出て来たのは、「太陽と月と11個の星」でした。訂正を致します。
 今日で6月最後の日となりました。みんなは、あと一か月半くらいで夏休みになります。中学生と高校生は、夏休みの前に期末テストがありますから、「やだなぁ~」と思っているかもしれませんね。今年の夏休みは、どのような計画を立てますか。それは計画通りに進むでしょうか。みんなが素晴らしい夏休みを過ごすことが出来るように今からお祈りしています。教会でも夏の特別なプログラムを用意していますので、期待していてくださいね。

 さて、僕たちは、旧約聖書に登場するヨセフについて話を聞いてきました。あっという間に最終回になりました。先週は、ヨセフがエジプトの王様が見た不思議な夢の意味を説明したこと、そしてエジプトの総理大臣になったことを聞きました。エジプトの王様が見た夢の意味は、エジプトには7年間の大豊作(たくさん作物が取れる時期)があり、その後、大飢饉(まったく作物が取れなくなる時期)が来るということでした。ヨセフが説明した通り、エジプトはたくさん作物が取れる7年を過ごしました。その間にヨセフは、エジプト中の作物を管理し保管することに成功しました。こうしてエジプトは、ヨセフの知恵によって数えきれないほどの作物をため込むことが出来たのです。その後、大飢饉がやって来て、エジプトでは全く何も取れなくなりました。そしてこの飢饉は、エジプトだけではなく、周辺の地域まで広がって、ヤコブが住んでいるカナンの地域まで飢饉に見舞われたのです。

 ヤコブは、「シメオンよ、他の兄弟たちと一緒にエジプトで食料を買ってきておくれ。カナンの地は飢饉のために何も取れなくなった。エジプトには有り余るほどの食料があると聞く」と言って息子たちをエジプトに遣わしました。「はい、分かりました。たくさん買ってきます。」と兄弟たちは、エジプトに向かって出発です。この時、一番下の弟のベニヤミンはヤコブのところに残りました。
 エジプトではヨセフがすべてを管理しています。兄さんたちは目の前の人がヨセフだとは分かりません。彼らは、エジプトの総理大臣に深々と頭を下げます。ヨセフは、「あっ、兄さんたちがやってきた」とすぐに分かりました。ヨセフは、兄さんたちを試すために、「お前たちはスパイだな?エジプトの国を調べに入ってきたのだろう。もし違うというのなら、お前たちの弟を連れて来い。それまで、一人を人質としてエジプトに置いていけ。」兄弟たちは、突然降りかかってきた災難というか困難に、「きっとヨセフをいじめたからだ」と口々に反省を口にしました。

 ヨセフの兄弟たちは、エジプトから食料を買い付けカナンに戻りました。しかし、それもすぐになくなってしまいます。もう一度エジプトに買いに行く必要があります。しかしなかなか行けません。それは、お父さんのヤコブが末息子のベニヤミンをエジプトには行かせたくなかったからです。お父さんヤコブは、ベニヤミンを危ない目に合わせたくなかったのです。その時、兄弟のユダが、「お父さん、自分がベニヤミンの責任を負います。もしベニヤミンに何かあったら、自分がその罰を受けますから、ベニヤミンを連れて行かせてください。」と頼んだのです。そこでヤコブは、やっとベニヤミンをエジプトに送る決心をすることが出来ました。

 彼らは、エジプトでヨセフの前にひれ伏します。ヨセフは、兄さんたちとベニヤミンがすぐ分かりました。でも兄弟たちは、目の前にいるエジプトの総理大臣がヨセフだとは気づきません。
 ヨセフは、兄さんたちと話をしている中で、兄さんたちが弟のヨセフをいじめて、売り飛ばしてしまったことを後悔していることを知りました。そしてヨセフを売ってしまえと提案してユダが、ベニヤミンの保証人となって責任を取ることにしていることも知りました。もう以前の意地悪なお兄さんたちではなかったのです。
ヨセフは、そのことを知って、もう黙っていられなくて「兄さんたち、僕です。ヨセフです。」と打ち明けました。みんなびっくりです。ヨセフに仕えていたエジプトの人たちも王様もびっくりです。こうしてヨセフは、ベニヤミンと再会し、兄弟たちと仲直りすることが出来ました。そしてなんと、お父さんのヤコブとその一家は、エジプトに移り住むこととなり、何不自由なく過ごすことが出来るようになったのです。

ヨセフは、「神様が、大飢饉に備えて、自分をエジプトに遣わしてくださったのです。自分は神様の計画に導かれていたのです。」と兄さんたちに言うことが出来ました。今週の御言葉を読みましょう。
「神を愛する人たち。すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」ローマ人への手紙8章28節。
 神様は、神様を信じて心から神様に従う人のために、全てのことを良い方向に導いてくださいます。神様は、皆のために計画を持っています。今、嫌なこと、苦しいことがあっても、神様は皆を守って助けてくださいます。神様を信じましょう。

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。神様は、ヨセフに御手を指し伸ばして助け、最善を行ってくださいました。神様は、今僕たちを助け、一番良い方向へと導いてくださることを信じます。神様、僕たちの毎日の生活を守り支えてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

「神を愛する人たち。すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」
                               ローマ人への手紙8章28節

<適用>
 日本には、上り坂と下り坂とどちらが多いでしょうか。答えは、「同じ数」という事だそうです。「坂を上ったら必ず下りがある」と言う説明が出来るでしょう。「同じ道であっても進行方向によっては、上り坂にもなるし、下り坂にもなる」という説明も出来ます。行は上り坂、帰りは下し坂になるという説明が出来ます。
 私たちの人生は、「上り坂」「下り坂」と思えること、どちらが多いでしょうか。それは、私たちがどのような人生の視点を持つかによってとらえ方が違ってくるのかもしれません。ヨセフの歩みは、そのことを私たちに教えています。

Ⅰ;思い悩む日々

 ヨセフは、神様の最善を信じて歩んでいたと思います。しかし彼は、神様の最善を信じつつも、本当に神様は最善をしてくださるのだろうかと思い悩む日々を過ごしたのだと思うのです。私たちも信仰をもって、神様の最善を信じて歩んでいます。けれども私たちは時々、「神様は本当に良いことをしてくださっているのだろうか」と不安と疑問に心が支配されることがあります。でもこの思い悩む日々の中で私たちは、神様からの答えをいただき、教えられ、整えられ信仰が成長するという経験をすることがあります。

 ヨセフのこれまでの歩みを振り返ってみましょう。ヨセフは、エジプトに売り飛ばされました。それはヨセフにとっては青天の霹靂、目の前が真っ暗になるような最悪の出来事でした。ヨセフの心には、兄たちへの恨みつらみが満ち溢れたことでしょう。ヨセフは、「お父さんに言われた通りに、兄さんたちの様子を確認するだけだったのに、どうして奴隷とされなくてはいけないのか。アブラハムの神、イサクの神はどこに行ってしまったのか」と神様への愚痴も出てきたかもしれません。
 そんな思い悩む日々の中でヨセフは、エジプトでの成功を手に入れるのです。侍従長ポティファルの家で「主がヨセフとともにおられたので、彼は成功する者となり(創世記39:2)」とあります。神様への感謝に溢れるヨセフです。しかし喜びもつかの間、ポティファルの妻の策略にはまり、監獄に捕らえられることとなりました。ヨセフは、奴隷から囚人となってしまったのです。でもこの時にも「主はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた(創世記39:21)。」とあるのです。ヨセフは、この時にも主がともにおられることを知り、神様の恵みを受けて監獄を管理する役目を担いました。

 監獄の中で出会った、ファラオの献酌官長と調理官長の夢を解き明かすことによって、監獄から出られる一筋の光が見えました。しかしヨセフは、献酌官長に忘れられ牢から出ることはありませんでした。その後彼は、2年も忘れ去られ監獄で過ごすのです。踏んだり蹴ったりのヨセフの歩みです。希望などどこにあるのでしょうか。しかし、ヨセフは、主なる神様がともにおられるという事実をこの逆境の中で確かに知るのです。2年後エジプトの王ファラオは不思議な夢を見ます。誰もその夢の説明をすることが出来ません。その時献酌官長は、ヨセフのことを思い出し、ヨセフは監獄から出ることが出来ました。ヨセフは、釈放されただけではなく、エジプトで総理大臣、ファラオに次ぐ地位が与えられるのです。
 ヨセフは、兄弟に売られた後、思い悩む日々が続きました。ヨセフがファラオに仕えるようになったのは彼が30歳の時です(創世記41:46)。最初に登場する年齢は17歳ですから、ヨセフは13年もの間、思い悩む時期を過ごしたことになります。この間にヨセフは、神様に心を向け、神様の導きはどこにあるのだろうか祈り求めたのです。

 私たちも思い悩む日々が続くことがあります。それが1年、2年の場合もあれば、ある事柄については数年、十数年思い悩むというか答えが見つからないということもあるでしょう。しかしその期間が無意味なのではありませんし、無駄なのでもありません。神様は、常に私たちと共におられるのです。もし私たちが、思い悩む日々を過ごすようなことがあるならば、共におられる神様に目を向けてください。神様が共におられることが分からない、と言うことがあるかもしれません。私たちは、時々そう感じます。なぜそう感じるのでしょうか。それは、「私たちが経験する困難や苦しみの中に神様はいるはずがない。神様がいるならこんなことにはならない」と考えるからではないでしょうか。それが神様を見失うということです。神様は、私たちから離れてしまったのではなく、私たちが思い悩む日々のただ中に一緒にいてくださるのです。そして私たちの手を取ろうと、御声をかけて御手の伸ばしておられるのです。

Ⅱ;揺るがされない日々

 ヨセフは、神様の最善を信じて歩んでいました。それは、思い悩む日々の連続のようなものでした。しかし、ヨセフにとって思い悩む日々の経験が、揺るがされない日々へと変わっていくのです。
 ヨセフがエジプトの総理大臣となってから、しばらくしてカナンの地から兄弟たちがやって来ました。ヨセフは、すぐに自分を奴隷として売り飛ばし、自分の人生をめちゃくちゃにした兄弟たちだと分かりました。ヨセフは、兄弟たちに対してスパイの嫌疑をかけ、厳しい態度をとりました。ヨセフは、昔のことを根に持っていたのでしょうか。私は、単なる恨みからの言動ではないと思います。ヨセフは、兄弟たちの心を知りたいと思ったのです。本当に末の弟のベニヤミンは元気なのだろうか。自分と同じように兄さんたちからいじめられ、つらい思いをしてないだろうか。兄弟たちのヨセフへの気持ちはどうなのだろうか。ヨセフは、そのことを知りたかったのではないでしょうか。

 そこでヨセフは、手の込んだ作戦を考えつきました。それが、先ほど話した通りです。まず、兄弟たちにスパイの容疑をかけ、ベニヤミンを連れてくるようにという条件を出します。この時、兄弟たちはヨセフが聞いているとは知らず、「我々は弟のことで罰を受けているのだ。あれが、あわれみを求めたとき、その心の苦しみを見ながら、聞き入れなかった。それで、われわれはこんな苦しみにあっているのだ(創世記42:21)。」と後悔の念を口にしました。兄弟たちの心が少しは変わっていることが分かりました。
 カナンの地での飢饉は厳しく、ヤコブ一家は、再びエジプトに食料を買いに行かなければなりません。ユダが自分を犠牲にするという申し出をして、兄弟たちは、ベニヤミンを連れてエジプトに向かうことにします。エジプトに着いた彼らを待っていたのは、2転3転する思わぬ展開でした(創世記43章から44章)。ヨセフは、ベニヤミンが一緒に来ていることを見ると、自宅で歓迎会を開きます。その後食料を与えますが、ヨセフは、食料の代金として出された銀を兄弟たちに返し、ベニヤミンの荷物の中に自分が使う銀の杯を入れておきました。ヨセフは、兄弟たちに自分の銀の杯を盗んだという窃盗の容疑をかけました。兄弟たちは、そんなことをするはずがないと無実を訴えます。しかし何とその杯は、ベニヤミンの荷物から発見されてしまったのです。彼らは、血相を変えて、ヨセフの前に進み出ました。兄弟たちは、窃盗の罪を問い詰めるヨセフに対して、ベニヤミンを何とか助けようと必死になっています(44:14-16)。その時、ユダが弁明をはじめました。その弁明の中でユダは、自分がベニヤミンの保証人になっているので、どうしてもベニヤミンを連れて帰る責任があると訴えます。そしてユダは、自分が身代わりになって何でもするからベニヤミンだけは助けてほしいと訴えました(44:32-33)。

 ヨセフは、兄弟たち、特にユダが以前のようではなく、悔い改めと他者を思いやる心を持っていることを知りました。その時ヨセフは、感情を抑えることが出来ず、自分の正体を打ち明けました。
 その時のヨセフの言葉は、彼が神様によって揺るがされない信仰を持ち、神様の最善を信じているという思いが現れています。彼は「神があなたがたより先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました(創世記45:5)。」、「ですから、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです(創世記45:8)」と言うのです。これはヨセフが、兄弟への恨みつらみの心から兄弟を赦す心に変えられていることを示すものです。ヨセフは、兄弟に裏切られ、思い通りにならない人生、問題と苦しみの多い人生の中で、思い悩む日々を過ごしました。そのよう中でヨセフは、神様に祈り、自分の人生に神様はどのようにかかわってくださるのか、神様の計画はどこにあるのかを祈り求めたのです。その結果、ヨセフは、自分がエジプトに来たことは神様のご計画だったと知ったのです。そして神様は、夢によってそのことをあらかじめ教えてくださっていたということも知ったのです。ヨセフは、夢の解き証しをする時、「解き明かしは、神のなさることではありませんか(創世記40:8)」と言っています。ファラオの前でも夢の解き明かしについては、「私ではありません。神が…(創世記41:16)」と言っています。

 ヨセフは、自己中心に夢を自慢していたものの見方から、「神」中心のものの見方に変えられていったのです。この視点の変更は、夢についてだけではなく、ヨセフの人生についても影響を与えていきました。ヨセフは自分がエジプトに来たことを「神が」という主語で語ります。この視点がとても重要です。最初に上り坂と下り坂の話をしましたが、人生には、もう一つの坂、「ま坂!」と言う坂があります。上り坂か下り坂かは、進行方向によって違うという説明が出来ます。と言うことは、どちらを向いているのかによって進むべき方向が違うということです。「まさか」とい思わぬ坂道に直面する時にも私たちの視点がどこに向いているのかによって受け止め方が全く違います。

 私は、高3の時、大学受験に失敗しました。私は、一朗して再挑戦しましたが、2度目もダメでした。私が立てていた大学進学という計画は2度も失敗したのです。そこで私は、藁をもすがる思いで専門学校の道を探り、一浪でも入れる専門学校を見つけ入学が許可されました。私は、浪人生をしている時、どうして思い通りに行かないのだろうかと思い悩みました。私は、自分の人生の先の道がまったく見えなくなっていたのです。しかし私は、神様が導く道はどのような方向に進むのだろうかと祈ることにしました。私は祈っている中で、神様が私を予備校や専門学校に導いた理由を知るようになりました。私は、家を離れて、新聞配達をしながら予備校に通いました。私は、その新聞配達店で一人の先輩に出会いました。もし私が、希望通りに目指す大学に入っていたら、出会えなかった人です。私は、その人と出会って、彼を教会に誘いました。彼は、教会に通うようになり信仰告白に導かれました。私は、彼を教会に誘うため、救いに導くために神様は私を用いてくださったことを知りました。そして私は、予備校生と専門学校生をしていた時に通っていた教会で、クリスチャンとしての信仰の訓練を受け、神様に仕え証しすることを学びました。またその教会で、私は、信仰の友(親友)との出会いも与えられました。神様は、私にとってマイナスと思えることも、プラスに変えてくださり、思い悩む日々から揺るがない日々へと変えてくださったのです。

 もし私たちが、「どうして自分は?」と言う視点で物事を考えているとしたら、その視点はいつも自分に向けられ、自分の力という限界に直面することになります。しかし私たちが、「神様はどのように導かれるのか」という視点で物事を考えるなら、その視点は、神様に向けられていきます。そして神様に心を向けるならば、そこには限界がありません。神様には不可能なことはないからです。そして神様は、信仰をもって神様を見上げる人に対して最善を尽くしてくださるのです。
 私たちは、問題のただ中にいる時、神様の最善など知ることが出来ず、分からないことが多いものです。ヨセフも神様が自分をエジプトに遣わされたと確信を持つまでに13年かかっています。私たちは、それ以上の年数がかかることがあるかもしれません。けれども、「主がともにおられる」ということは変わらない事実です。神様が最善をしてくださり、私たちを導いてくださることは確かなことなのです。

 今週の聖句をご一緒に読みましょう。「神を愛する人たち。すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」ローマ人への手紙8章28節。

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。私たちは、自分の人生がこの先どうなるのか分かりません。私たちは、多くの事柄の中で不安や恐れを抱きます。そして私たちは、良いことなど何もないと感じてしまうことがあります。
 けれども神様は、神様を信じ信頼する人に最善をしてくださるという約束を信じます。神様、神様の最善を信じ信頼し続けることが出来るように力を与えてください。私たちは、神様によってすべてのことがともに働いて益となることを信じます。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」