2024年8月25日(日)礼拝説教 出エジプト記12章12-14節 「共にいて遣わされる主」 説教者:赤松由里子師

<子どもたちへ>
 この間から、エジプトの国の王子様だった人のお話を聞いています。名前を覚えていますか?そう、モーセさんです。この名前には「引き出し」という意味があるそうです。モーセを川で見つけた王女様が、水から「引き出し」たから、引き出しくん、と名付けられました。モーセは大人になってから、奴隷にされていた同じ国の人たちを、エジプトから連れ出した人です。神様から、イスラエル人を助けるお仕事を任せられたのでした。今日のお話はその中でも一番大切なところです。過ぎ越し、という出来事をお話しますね。

 モーセはお兄さんのアロンと一緒に、エジプトの王様のところに行きました。「私の国の人たちを解放して、エジプトから出て行かせて下さい。神様を礼拝しに行きたいのです。」でも王様は怖い顔をして言いました。「いかん、いかん!奴隷たちをなまけさせるつもりだろう。」そう言って許してくれません。するとモーセたちは言いました。「イスラエル人を出て行かせないと、神様が災いをエジプトに送ると言っておられますよ。」それでも王様はモーセたちの言うことを聞いてくれませんでした。
 そこでモーセたちは神様のおっしゃる通りにしました。すると、ナイル川、というエジプトで一番大きい川が真っ赤な血に変わってしまいました。また虫やカエルがたくさん湧いてきて、エジプト中が困ってしまいました。そのほかにも雷やひょう、病気など、9つもの災害が起きてしまったのです。それでも王様はイスラエル人を行かせてくれませんでした。

 モーセたちは言いました。「王様、これが最後です。神様は言われます。イスラエル人を行かせないなら、今夜真夜中ごろ、エジプトの一番年上の子どもがみな死ぬだろう。」怖いですね。それでも王様はダメだ!と言ってイスラエル人を行かせませんでした。
 モーセはイスラエル人に言いました。「これから私の言うとおりにしなさい。今夜、エジプト人の年上の子どもがみな死にます。でもあなたたちは子羊を用意して、その血をヒソプの葉っぱにつけて家の入口に塗りなさい。血の塗ってある家は、災いが過ぎ越して行き、子どもが死ぬことはありません。」
 イスラエル人たちはモーセの言う通り、大急ぎで子羊の血を門に塗りました。

 真夜中になりました。「キャーっ!」と叫ぶ声、「うわーっ」と泣く声がエジプト中に響きました。神様の災いがエジプトの国を行巡り、国中の年上の子どもが死んでしまったのです。お城の王子様も亡くなってしまいました。でも信じて子羊の血を塗ったイスラエル人のおうちは災いが過ぎ越したので大丈夫でした。これが、過ぎ越しです。
 王様は急いでモーセたちを呼びました。「私の子が死んでしまった。国中の子どもたちもだ。おまえらのせいだ!イスラエル人を連れてさっさとこの国から出ていけ!でも、私たちのためにも神様に祈れよ」。
 ついにイスラエル人がエジプトから脱出する時が来ました。モーセは言いました。「急いで支度をして下さい。それと、今まで奴隷として働いた分として、金や銀の飾り、服などをもらって行きましょう。」
 みんな言われたとおりにしました。そして家族ごとにまとまってエジプトを出発しました。大変な大人数です。何万人もいたそうです。こうして神様はイスラエル人を奴隷から解放して下さいました。

 皆さん、これは私たちにも関係があるお話です。私たちも、実は小さい時から心の中に、罪というものがあります。エジプトの王様のように、神様に逆らう心があるのです。罪があるままでは天国に行けません。どうしたらいいのでしょう。そのヒントが今日のお話にあります。子羊の血を門に塗ったおうちだけは、わざわいが過ぎ越しましたね。聖書はイエス様が神様の子羊だよ、と言っています。十字架で亡くなる時に流した血は、あの時の子羊と同じだよ、信じるならあなたも守られて天国に行けるよ、と言うのです。今日のみことばを読みましょう。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3:16)。
 神様は私たちがどんな人であっても、大好きでいてくれます。そして滅びてしまうのでなく天国にいけるように、過ぎ越しの子羊のようなイエス様を下さったのです。エジプトの王様たちは子羊の血による救いを馬鹿にして信じず、悲しい結果になりました。私たちは子羊イエス様を信じましょう。私たちのことが大好きで、天国に迎えたいと思っておられる神様に感謝しましょう。

<祈り>
 天の父なる神様。いつも私たちを守って下さってありがとうございます。私たちを大事に思って下さって、子羊のようなイエス様を贈って下さったことを感謝します。天国にいけるように、イエス様を良く知って信じられますように。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

「神は、実に、そのひとり子をお与えにあったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
                                ヨハネの福音書3章16節

<適用>
 皆さんのこの夏の思い出はいかがでしょうか。大人になると、夏と言っても特にないよ、ということが多いかと思います。私は今年、十数年ぶりに中高生キャンプに参加しました。奉仕者としての参加でしたが、大変恵まれた時を持ちました。キャンパーは息子たちの世代で、赤ちゃんの時から知っている子たちでした。彼らの様子に、本当に感動を覚えたキャンプでした。まずその話してくれる言葉の一つひとつが瑞々しいのです。大人だと、どこかで誰かが行っていたことを受け売りのように話してしまうことがあると思います。けれど、中高生たちの、「このキャンプで開かれたこのみことばに驚いた」とか「神様が自分と一緒にいて下さると分かった」とのことばは、今まさに気づかされた、という新鮮さに満ちていました。そこに聖霊が働いておられることが、如実に感じられる素晴らしい時でした。イエス様を信じ受け入れたいと表明した人、洗礼の決心をした人、友達に伝えて行きたいと思いを強めた人、様々です。主の畑は豊作だ!と思いを新たにしました。どうぞ続いて彼らと各教会の成長と祝福をお祈り下さい。
さて、先週の箇所(出エジプト記3章)でモーセは神様から召されて「わたしがあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。このわたしがあなたを遣わすのだ」(3:12)とお言葉を頂きました。モーセはファラオのもとに遣わされ、出エジプトという大事業に取り組んで行きます。主の約束のお言葉は、モーセの人生の中でどう実現していったのでしょうか。共に学んで参りましょう。

1.モーセと共におられる主

 今日覚えたい第一のことは、神様は従う者と共にいて下さる、ということです。共にいるとは寄り添う、ということでもあります。神様は、モーセが直面していた問題に寄り添って下さいました。それは、口べた、という問題でした。4章にそのことが詳しく出ています。
 「モーセは主に行った。『ああ、わが主よ、私はことばの人ではありません。』…『ああ、わが主よ、どうかほかの人を遣わしてください』」(4:10,13)。従いたい、でも自分はそんな器ではない。そんな葛藤が、モーセの内にありました。昔エジプトの王子だった頃、血気にはやって同胞を救おうとした姿からは想像もつきません。荒野の羊飼いとして過ごした歳月が、モーセに謙遜さを与えました。聖書はモーセをこう記しています。新改訳第3版で紹介します。「さて、モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった」(民数記12:3)。この謙遜さこそモーセの特徴であり、神様の前に大切な資質でした。

 「謙遜」という言葉は「柔和」とも訳されます(新改訳2017)。どちらも大切な徳ではありますが、強いリーダーのイメージとは重なりません。少なくともアメリカ大統領選には出てこないタイプでしょう。
 しかし神様はこの謙遜に訓練されたモーセをこそ求めておられました。それゆえ口べたという弱さを問題となさいませんでした。彼ひとりで完結させずに、兄アロンにサポートをさせるのです。
 私たちは自分の力だけで物事をやり遂げなくてはならない、と考えがちです。人間関係も、仕事も、子育ても、勉強も、「ああ、主よ。他の人を遣わして下さい」と言いたくなることがあるように思います。自分の力が発揮されて輝く場でなければ嫌だ、と思いがちかもしれません。しかしこのところから示されるのは、謙遜に神様の助けを受け入れてお従いし続ける人によって、神のみわざは確かに進んでいくということです。私たちはこのモーセの謙遜に学ぶ必要があります。

 見のがしてはならないのは、モーセすら、従ったのにうまくいかないという負のループを経験したことです。彼はアロンを受け入れてイスラエル人の前に立ちましたが、結局彼らはモーセの言うことを聞きませんでした。彼は改めて口べた問題に打ちのめされます(6:12、30)。
 しかし主は改めて言われました。「主はモーセに言われた。『見よ、わたしはあなたをファラオにとって神とする。あなたの兄アロンがあなたの預言者となる。』…そこでモーセとアロンはそのように行った。主が彼らに命じられたとおりにおこなった。…彼らがファラオに語ったとき、モーセは八十歳、アロンは八十三歳であった」(7:1,6-7)。
 主はモーセたちに困難の立ち向う力をも備えて下さいました。目に見える助け以上に、主ご自身のみわざが必要です。そのために祈りましょう。どこまでも寄り添って共にいて下さる主にすべてを聞いて頂いて、御手を動かして頂きましょう。

2.子羊キリストを遣わされる主

 2つ目に覚えたいのは、救いのために子羊キリストを遣わして下さる主ということです。イエス様は、「神の子羊」「過ぎ越しの子羊」と新約聖書で呼ばれています。つまり、過ぎ越しの出来事は、イエス様の十字架の血による贖いの予表なのです。現代においてこの過ぎ越しを読むとき、私たちはイエス様の十字架につなげて読む必要があります。
 12:5~6にはこうあります。「あなたがたの羊は傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊か山羊のうちから取らなければならない。あなたがたは、この月の十四日まで、それをよく見守る。」2週間の間、犠牲となる子羊を彼らは見守りました。各家庭の長子のいのちを救うために、かわいそうではあっても動物のいのちが必要でした。「その血は、あなたがたがいる家の上で、あなたがたのためのしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたのところを過ぎ越す。わたしがエジプトの血を打つとき、滅ぼす者のわざわいは、あなたがたには起こらない。」(12:13)。愛と恵みの神は一方でさばきの神でもあられます。しかし主は、イエス様を信じるものの上に、十字架の血潮の印を見て下さいます。ですからわたしたちは、イエスキリストの十字架の恵みを受け取りたいと願います。

 「神の子羊」と呼ばれたイエス様は、父なる神からの、罪の世に対する愛の表現でありました。今日のみことばを読みましょう。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)。わたしたちは間違いなく、神に愛されています。大切なひとり子を犠牲にして下さるほど深い愛です。
 モーセによってなされた出エジプトは大事業でしたが、イエス様による救いもまた、私たちの魂の出エジプトと言える大事件です。神はその大事業を推し進めたいと願っておられます。今日も、これからも、私たちの人生に寄り添い、共にいて導き、キリストを遣わして救って下さるお方です。主の備えられた救いを受け取り、へりくだり疑わずに歩み続けましょう。

<祈り>
 天の父なる神様、今日もあなたを礼拝する民に加えて下さったことを感謝いたします。あなたは私たちに寄り添い共にいて下さることを信じます。あなたご自身のみわざがなされることを、私たちは願います。私たちは不完全で、主にふさわしいものではないからです。しかし、あなたのみわざが進むことを、私たちは信仰をもって祈り求めて参ります。モーセのように謙遜に助けを受け入れて、お従い続けられますようお助け下さい。あなたが遣わして下さった神の子羊なるイエス様の御救いに感謝いたします。あなたの愛が確かであるとは、なんと幸いなことでしょうか。ますますあなたを愛し、あなたと共に歩ませて下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。