<子どもたちへ>
今日は、2人のおじいさんのお話をします。その2人は、カレブさんとヨシュアさんです。どこかで聞いたことのある名前ですね。おじいさんになる前、おじさんくらいの年齢の時のお話を、みんなも聞いたことがありますよ。イスラエルの人たちが、カナンの地を調べて大きなぶどうを持って帰ってきましたね。あの時に「神様が一緒なら必ずカナンを占領できます」と言ったのが、このカレブとヨシュアだったのです。そこからなんと45年が過ぎました。
カレブは昔の仲間で今はイスラエルのリーダーであるヨシュアに言いました。「私はカナンを調べた40歳の時から今までずっと、神様に従ってきました。あの時神様は必ず約束の土地を下さるとおっしゃいました。今は85歳ですがまだまだ元気で、戦う力もあります。どうかヘブロンの山を私に取らせて下さい。神様が一緒ですから必ず勝つことが出来ます。」これを聞いたヨシュアは嬉しくなりました。カナンを一緒に調べた時のことを思い出したことでしょう。そして「あなたが信じた通りになりますように!」とカレブを祝福しました。
ヘブロンの山には手ごわい相手が残っていましたが、カレブは勝利しました。そして45年間信じ続けた通り、ヘブロンの山を自分のものとして受け取ることが出来ました。
もう一人のヨシュアは、更に年を取りました。なんと100歳越えです!もうすぐ天国に行くことになる、と感じたヨシュアは、イスラエルの人たちを集めて大切なお話することにしました。「皆さん、私ヨシュアはイスラエル人を、このカナンに連れて入りました。この土地が手に入ったのは、神様が一緒にいて与えて下さったからです。でもカナンには、偽物の神さまを拝む人がたくさんいますよ。あなたたちはそういう人たちのまねをしてはいけません。導いて下さった本当の神さまだけを信じて従いなさい。もしそれが不満なら好きなようにしなさい。でも私と私の家族は神様だけに仕えます」。すると人々は言いました。「私たちもです!」今日のみことばを読みましょう。「私たちの神、主に仕え、主の御声に聴き従います」(ヨシュア24:24)。この出来事ののち、ヨシュアさんは110歳で亡くなり、天国に召されました。
このヨシュアとカレブは若い時から神様を信じ続けて、立派な働きをした人たちでした。年をとっても輝き続けた先輩です。私はクリスチャンになって40年くらいになります。すごい年数になってきましたが、これだけ守られたんだな、祝福されたんだな、と感謝しています。みんなの年齢から神様、イエス様を信じて、年を取っても信じ続けたなら、40年、45年どころかもっともっと長い信仰生活になりますよ。もちろん色々大変なところも通るでしょう。でも神様はずーっと私たちと一緒にいて下さり、祝福して下さいます。神様を信じます!神様だけに従って行きます!と、わたしたちもお祈りし続け、言い続けて行きましょう。
<祈り>
「天の父なる神様。年をとっても神様に従って輝き続けたヨシュアとカレブのお話を聞きました。神様が一緒にいて守って下さることを信じ通した2人のように、私たちも神様をずっと信じ続けたいです。どうぞお守りください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」
「私たちの神、主に仕え、主の御声に聴き従います。」 ヨシュア記24章24節
<適用>
今日の箇所は敬老会などに合わせて開かれることの多いところです。ご高齢でなお神様と教会に忠実に仕えて下さる信仰の先輩方のことを、「あの人はカレブのようだ」とか「ヨシュアのようだ」と表現することがあります。世の中は高齢化社会ではありますが、核家族が進む中、年の離れた世代と交わることのできる場は案外限られているように思います。教会は神の家族として、異なる世代が共に集められている、数少ない場なのかしれません。
私たちはこの教会の交わりの中で、生涯を通じて神様と共に歩むよう招かれています。若い時だけ、成熟した時だけ信じていればいいのではありません。いい時も悪い時も、命の日の限り信仰に生きていくのです。今日は、2人の熟練の信仰者の姿に学んで参りましょう。
1.主に従い通すカレブ
カレブについては先ほどお話した通りですが、どんな人物であったのかもう少し学んで参りましょう。彼はユダ族の族長としてカナン偵察に行き、信仰によってカナンを必ず攻略できる、と不信仰な民を説得しようとした人です(民数記13,14章)。この時の信仰が神様から賞賛されていたのです。民数記14:24には「ただし、わたしのしもべカレブは、ほかの者とは違った霊を持ち、わたしに従い通したので、わたしは、彼が行ってきた地に彼を導き入れる。」と言われています。この「ほかの者とは違った霊」を神様はご覧になりました。それは、堅く信仰に立って神への信仰を貫く魂でした。
ヨシュアも同様の信仰に立って行動しました。しかし不思議なことですが、「わたしのしもべ」と呼ばれているのはカレブだけです。そしてカレブの発言しか聖書に記録がないのです。モーセの後継者として立つ前のヨシュアをリードするかのように、カレブは毅然と信仰に立って行動していたのです。
そのカレブが時を経て85歳になって聖書に再登場いたします。それが今日の箇所です。彼は旧知のヨシュアにあの日のことを思いだすよう語り、言いました。「今、主があの日語られたこの山地を、私に与えてください。そこにアナク人がいて城壁のある大きな町々があることは、あの日あなたも聞いていることです。しかし主が私とともにいてくだされば、主が約束されたように、私は彼らを追い払うことができます」(ヨシュア14:12)。わたしはこの言葉に驚きを覚えます。カレブはあえて困難な土地を希望したのです。これはイスラエルの民が不信仰に陥った理由にも関わらず、です。この驚くべき信仰はどこから来たのでしょうか。「しかし主がわたしと共にいて下されば…できる」という言葉に、その秘訣があるように思います。「主はわたしと共にいてくださる」この確信が、私たちの信仰を燃え立たせてくれるのではないでしょうか。
そんなカレブの信仰に神様は祝福をもって応えておられました。彼は85歳にして壮健でしたが、その驚くようなパワフルさは特別な祝福のあらわれだったのでしょう。けれど彼がスーパーおじいちゃんだったから、「まだまだ若い者には負けん」と頑張ったから、困難な地を得られたのでしょうか?彼は実際にヘブロンを攻略して手に入れていますが、そう出来た理由を聖書ははっきりと示しています。「このようにして、ヘブロンはケナズ人エフンネの子カレブの相続地となった。今日もそうである。彼がイスラエルの神、主に従い通したからである」(ヨシュア14:14)。
主に従い通す信仰、それがカレブの祝福の源泉でした。みんながスーパー高齢者、スーパークリスチャンになる必要はありません。見習うべきはただ一つ、主に従い通すという点においてカレブにならい、信仰に立った行動を選択させて頂きましょう。
私が神学生の時、授業の合間のチャペルの時間にある先生がこんな題でメッセージをして下さいました。題して「消息不明の男」。なかなか珍しい説教題です。新約聖書で、金持ちの青年がイエス様に「永遠の命を得るにはどうしたら良いか」と尋ねた箇所です。彼は神の戒めを自分は守っている、隣人を自分自身のように愛している、と自任していました。しかし、イエス様から「財産を貧しい者に施して従ってきなさい」と言われて、悲しみながら去って行った、といきました。富への執着、そして自己義認が彼をイエス様の前から「消息不明」にしてしまいました。もちろん彼自身の家族や社会、生活のつながりにおいて、消息が失われたわけではありません。しかしイエス様から去っていくなら、それは失われた状態であり、「消息不明」だと言うのです。私たちはどうでしょうか?
人生のある時期、一過性のように熱心だけれど、後は信仰から離れる、ということがあってはなりません。小学生、中高生、青年の人たちも、大人になってもこの先何年、何十年でも神様について行って下さい。決して「消息不明」にはならないで下さい。信仰は一生ものです。人生のベテランになっておられる方々も、成長にゴールはありません。むしろ内なるものを日々新しく整えて頂き、生涯を主に従い通す信仰を新たにさせて頂きましょう。
2.主に立ち返り続けるヨシュア
さて、もう一人の信仰者ヨシュアに目を留めましょう。
彼の晩年の決別説教とも言えることばがヨシュア記24章に記されています。ヨシュアはイスラエルの全部族をシェケムに集めました(24:1)。
それは「主にだけ仕えなさい」ということです。そしてこう言います「主に仕えることが不満なら、あの大河の向こうにいた、あなたがたの先祖が仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のアモリ人の神々でも、今あなたがたが住んでいる地のアモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、今日選ぶがよい。ただし、私と私の家は主に仕える」(24:15)。
ヨシュアは「主にだけ仕えよ」と信仰の核心を教えていますが、信仰を強制してはいません。これは重要なポイントです。一人ひとりの意志による信仰告白によってのみ、信仰は生きたものになるからです。大人であっても子どもであっても、信仰を強制することはできません。しかし信仰の大切さを知り委ねられたものとして、そのメッセージを語り続けます。みことばを聞いた一人ひとりに聖霊のみわざとしての信仰告白が生まれるように、私たちは忍耐ととりなしの祈りをもって見守る必要があります。
ヨシュアの突き放した言葉によって、イスラエルの代表者と押し問答のようになっています。結果的にどうなったかと言えば、今日の中心聖句のみことばのように、イスラエルは応答しました。「私たちの神、主に仕え、主の御声に聞き従います。」(ヨシュア24:24)。そしてイスラエルはヨシュアと信仰の契約を結んだのでした。
こんな信仰告白を引き出したヨシュアでしたが、彼は失敗もした人でした。先週見たアイを攻略する際の失敗です。偵察隊が「楽勝です」と報告するのを鵜呑みにし、神様に祈らなかったのです。結果、イスラエルは惨敗しました。それはアカンの罪の故でした。祈っていれば主のみこころを示して頂けたでしょうに、ヨシュアは祈らず決定を下して失敗してしまいました。彼は決して完全な人物、完全なリーダーではなかったのです。
それでもヨシュアは神につくことを止めない人でした。悔い改め、やり直し、信仰に生きることを選び続けました。彼はこう言い切ることができました。「私とわたしの家は主に仕える」。
シェケムと言う場所にも意味がありました。シェケムで神様はアブラハムにあらわれて、この地をあなたの子孫に与える、と言われました。それに応えてアブラハムはここに祭壇を築きました。またその孫ヤコブがシェケムを買い取り祭壇を築いています。シェケムはこのように、主のために祭壇を築いて信仰を表明する場だったのです。
来週は洗礼式が予定されています。教会における洗礼式は、まさにこの信仰を表明する場であります。祈りつつその守りをお祈りして行きたいと思います。また、心のうちに洗礼を意識している方が他にもおられるのではないかと思います。その方々にも、ご自身の意思による信仰告白が与えられ、洗礼によって表明できる日がくるよう祈って参りたいと思います。
私たちは決して完全な者ではありません。ヨシュアもそうでした。生涯主に従い続けるとは、完全無欠になって絶対罪を犯さない存在になる、ということではありません。もちろんそうなれたら素晴らしいですが、それが出来ないのが私たちです。たとえ罪を犯し失敗しても、そのたびに神様の前に悔い改めて立ち返りましょう。何度でも十字架で身代わりとなって下さったイエス様を見上げて生きて行きましょう。それが神に従い続ける、ということです。そのためにも、教会の交わりが真の励ましととりなしの内に祝されていきますように、祈って行きましょう。
<祈り>
「天の父なる神様、御名をあがめます。カレブとヨシュア、2人の信仰の先輩の姿に学ばせて頂きました。私たちの外なる人は間違いなく衰えて行きます。しかし内なる人は日々新しくして頂ける、と教えられていることを覚えます。カレブのように、生涯信仰を貫き通しあなたのそば近くを歩み続けていけますようお守り下さい。ヨシュアのように、「私と私の家とは主に仕えます」と信仰の表明を新たにしたく願います。家族を救いに導いてください。私たちが大いに祝福を頂いている様をもって、あなたのご栄光を現してください。教会の内にとりなしと励ましの交わりがますます豊かに育まれていきますように。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。」