2024年12月29日(日)礼拝説教 ルカの福音書2章21-38節 「救い主との出会い」 説教者:赤松勇二師

 <子どもたちへ>
 今年もあと3日となりました。この一年は、皆にとってどんな一年でしたか?皆の中には、大きな変化を経験したお友だちもいますね。神様は、今年も皆と一緒にいてまもってくださいました。そのことを感謝しましょう。僕たちは、年末年始を迎えてもうすでに気分はお正月になっているかもしれませんね。クリスマスの出来事を忘れていませんか?今日は、生まれたばかりの救い主イエス様に出会った二人の人の話しです。

 ベツレヘムの家畜小屋で生まれた赤ちゃんは、生まれて8日目に「イエス」と名前を付けられました。それは御使いがヨセフとマリアに伝えていた名前です。そしてイエス様が生まれて40日目、「さあ。エルサレムの神殿に行って神様への感謝の礼拝をしてこよう。」ヨセフは、マリアとイエス様を連れてエルサレムの神殿に行きました。
 すると「おーっなんと救い主ではないですか!」シメオンというおじいちゃんが近づいてきました。「なんて可愛い子なのだろうか。ちょっと抱っこさせていただけませんか。」シメオンは大喜びです。
 このシメオンは、まことの神様を信じて、救い主を待ち望みながらお祈りをしていた人でした。そして神様は、シメオンに救い主に会うまでは死なないと約束をしておられたのです。ヨセフとマリアがイエス様をエルサレムの神殿に連れて行った丁度その日に、シメオンは聖霊なる神様に導かれて神殿にやって来たのです。シメオンは、イエス様を腕に抱き、「神様、ありがとうございます。神様の約束の通り、こうして救い主にお会いすることが出来ました。この方こそ、全ての人に救いを与えるお方です。」と神様への感謝のお祈りをしました。そして母親のマリアには、これからイエス様がどのような人生を歩まれるのかについて預言をしました。

 同じ時にもう一人、神殿で救い主に会った人がいます。アンナというおばあちゃんです。アンナは、毎日神殿に来て神様を礼拝し、家でも神様にお祈りをする生活をしていました。アンナも救い主が来られる事を待ち望んでいた人でした。アンナは、ヨセフとマリアそして大喜びするシメオンに近づいてきて、「この子が、救い主だね。神様が昔の預言者を通して約束してくださったことが実現したのですね。なんてすばらしい事なのでしょうか。」と感謝の祈りをささげました。そしてアンナは、「皆さん、神様が約束しておられた救い主が来られました。神様は私たちの事を忘れず、救いを与えてくださったのです。こんなに嬉しいことはありませんよね。」と多くの人たちに救い主イエス様のことを教えてあげました。

 ヨセフとマリアは、イエス様が生まれた事を感謝し、イエス様を神様におささげするためにエルサレムの神殿に行きました。シメオンとアンナは、約束の救い主に会うことが出来て心からの感謝をささげました。そしてアンナは、喜びに包まれて周りの人たちにイエス様のことを教えました。
 神様は、僕たち一人ひとりのことをいつも見守ってくださいます。救い主イエス様は、皆の罪を赦し、たくさんの素晴らしいことをしてくださいます。僕たちはそのことを感謝し、神様を心から礼拝しましょう。そして救い主イエス様のことをお友だちに教えてあげましょう。イエス様は、皆の友だちのためにも生まれてくださったのです。

 皆は、この一年の中でつらいこともあったかもしれません。けれども神様が助け導いてくださったこともあったはずです。僕たちは、神様が良くしてくださったことを数えて「神様ありがとうございます」と感謝の祈りをしましょう。今週の聖句を読みましょう。詩篇103篇2節です。「わがたましいよ 主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。シメオンとアンナは、救い主イエス様とお会いすることが出来て感謝をささげました。僕たちは、救い主イエス様に出会うことが出来、イエス様によって守られていることを感謝します。このイエス様の素晴らしさをお友だちに伝えることが出来るように導いてください。皆のお友だちが教会に来てイエス様を信じることが出来るように導いてください。
 神様、この一年も守り支えてくださりありがとうございました。冬休みの間子どもたち一人ひとりの健康と生活を守ってください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

「わがたましいよ 主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」                      詩篇103篇2節

<適用>
 2024年も皆さんとご一緒に礼拝できた恵みを心から感謝いたします。新しい年も神様の恵みの中で共に礼拝をおささげしましょう。そして神様を礼拝する人たちが新しく加えられるように祈りましょう。
 私は、年々一年があっという間に過ぎてしまうなぁと感じています。少し前に「新年おめでとう」と言ったように思うのですが、もう「良いお年をお迎えください」という時期になってしまいました。学生時代は、一年が長く感じていたような気がするのです。同じ一年(365日)を過ごしているはずなのですが、時間が経過する速さが違うような気がしてびっくりですね。そんなことを感じるのは、私だけではないと思います。
 そんな早く過ぎてしまった一年のように感じますが、その中にも数々の感謝がありました。私たちは、主が良くしてくださったことを何一つ忘れず、一つ一つ感謝をささげましょう。何よりも私たちは、救い主イエス様と出会い、こうして主の御前に出て礼拝できるという恵みをいただいています。「救い主との出会い」それは、人生を大きな喜びで満たします。

Ⅰ;救い主と出会ったシメオン

 ルカは、救い主に出会ったシメオンについて記しています。
 その前にルカは、生まれた幼子が「イエス」と名付けられたことについて書いています。神の御子イエス様は、ベツレヘムでお生まれになり、人としての歩みが始まりました。それは、神様の律法を守る歩みとなりました。ヨセフとマリアは、律法を忠実に守る信仰を持って行動しています。

 ヨセフとマリアは、生まれて8日目の幼子に契約の印である割礼を授け、御使いに言われたとおり「イエス(主は救い)」と名付けました。この割礼は、イエス様が、律法の下にある者となられたことを意味しています。これは、実に重要な意味を持っています。パウロは、「しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。それは、律法の下にある者を贖い出すだめであり、私たちが子としての身分を受けるためでした(ガラテヤ4:4-5)。」と言っています。神である独り子イエス様は、人間の罪を背負うために人間としてお生まれになりました。イエス様が割礼を受けられたということは、イエス様が人として、主なる神様の定めに従い、御言葉を忠実に行う聖い生涯を送られるということなのです。こうしてイエス様は、律法の下にある者となられ、私たちを罪の暗闇から救い出してくださるのです。

 そしてヨセフとマリアは、律法に規定された期間(40日)が過ぎた時、律法に従って、きよめいけにえと初子を主に捧げるためにエルサレムの神殿にいきました。普通なら、この時羊をささげるのですが、彼らが用意できたいけにえは、貧しい者のために決められたいけにえ「山鳩一つがい、あるいは家鳩のひな二羽」でした。ヨセフとマリアは、貧しい中で何とかベツレヘムで生活を営んでいたのです。こうしてイエス様は、神のひとり子救い主として、律法を成就することとなるのです。

 この神殿で救い主に出会った人物の一人が、シメオンでした。シメオンは、敬虔なユダヤ人で、救い主を待ち望んでいた人でした。そして聖霊に満たされて歩み、キリストを見るまでは決して死なないと約束を受けていたのです。シメオンは、この日、特別な導きを感じてエルサレムの神殿にやって来ました。それは、聖霊なる神様ご自身がシメオンの心に御手を差し伸ばしてくださったという、普段とは違う感覚だったことでしょう。シメオンは。マリアに抱かれた幼子イエス様を見たとき、聖霊の導きの中で救い主だと分かりました。そして腕に抱き、神様を賛美するのです。シメオンはまず、救い主を見たこと、自分ために救い主がお生まれになったことを感謝しました。そして救い主は、自分だけではなく、ユダヤ人だけでもなく、万民(全世界の人々)のための救い主であると証しするのです。

 そしてシメオンは両親をも祝福しますが、その内容は、祝福と言うよりも親としてはドッキとする内容となりました。シメオンは、幼子イエス様の十字架の受難の預言を語りました。35節の「あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります。」というのは、イエス様の十字架のことで、マリアにとって大きな悲しみとなるということです。それだけではなく、シメオンは、イエス様の救いのみわざを前に人々の心が「あらわになる」と語りました。それは「多くの人が倒れたり立ち上がったりする」という事でもあります。このシメオンの言葉は、イエス様の十字架の救いのみざわに対して二つの反応があると教えます。一つの反応は、イエス様による救いを拒絶して罪の中にとどまり続けるというものです。もう一つの反応は、信仰をもってイエス様の救いを受け入れ、罪から救われ永遠のいのちを得、神様の祝福を受けるという反応です。
 皆さんは、どちらの反応をするでしょうか。私たちは、救い主との出会いに感謝し、信仰と喜びをもって応答しましょう。

Ⅱ;救い主に出会ったアンナ

 シメオンが大喜びをしているその場に、もう一人いました。それは、女預言者と言われるアンナでした。アンナは、結婚して7年後に夫が死んでしまいました。彼女は、その後未亡人となり年を重ねておりました。アンナは、未亡人となってからの人生を神殿で過ごしていました。これは、神殿の一角に住まいを得ていたか、毎日神殿で礼拝をして過ごしていたという事です。「夜も昼も」というのは、アンナが自宅でも神様への礼拝をささげていたという彼女の信仰生活を物語っています。

 これは、私たちの信仰生活の模範となる姿勢だと思います。私たちは、一日中神様を礼拝して過ごしているわけではないでしょう。私たちには、生活を支えるための仕事がありますし、日常の様々な事柄で多くの時間を使っています。しかし、日々の歩みの中で御言葉を読み、その御言葉を思い巡らし、主に祈り礼拝するという時間が取れないわけではありません。アンナの信仰の姿勢は、そのような神様を礼拝する時間を大切にすることを私たちに教えているのではないでしょうか。
 アンナは、普段から祈りによって神様と交わりを持つことが出来ていたので、幼子を見た時に神様の導きを敏感に受け取ることが出来たのではないでしょうか。そして正しい敬虔なシメオンが感謝をささげる姿とその言葉を聞いてさらに、確信へと変えられたことでしょう。アンナもまず神様に感謝をささげました。

 アンナの行動は、それだけではありませんでした。アンナは、同じようにイスラエルの慰めを待ち望んでいる人たちに、幼子の事を話したのです。アンナは、伝道者としての働きもしたのです。彼女は、救い主との出会いを独り占めすることはありませんでした。アンナは、救い主がすべての人に必要であることを知っていたのです。そして、アンナは、救い主との出会いという喜びを伝えたい、喜びを一人でも多くの人と分かち合いたいと考えたのです。イエス様の事を伝えたいというアンナの信仰の姿勢も、私たちの模範となるのではないでしょうか。
 私は、救い主との出会いを喜び、その感動を一人でも多くの人に伝えるというこの単純な信仰の姿勢を模範としたいと願います。皆さんは、いかがでしょうか。

Ⅲ;救い主と出会った私たち

 こうして、シメオンとアンナが救い主との出会いを経験しました。新約聖書には、その他多くの人たちが救い主イエス様と出会っていることを記しています。そして今、私たちもまた救い主との出会いを与えられています。今私たちは、直接イエス様を見る事は出来ません。けれども聖書の御言葉を通して確かにイエス様を知ることが出来ます。

 イエス様は、復活の後弟子たちに姿を現した時「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです(ヨハネ20:29)。」とトマスに言われました。ペテロは、「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄に満ちた喜びに踊っています。あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです(Ⅰペテロ1:8-9)」と教えています。
 イエス様は、私たちのためにこの世にお生まれくださり、私たちを罪から救うために十字架で神様の裁きを受け死なれ、三日目によみがえり今も生きておられ、信じる人たちを救い永遠のいのちの約束を与えてくださっています。この救いの恵みを受けて平安を与えらえ、喜びに包まれることが、私たちと救い主イエス様との出会いです。

 皆さんは、いつその出会いを体験したでしょうか。私は、小学4年生の時の夏のバイブルキャンプで、自分の罪深さを知りイエス様を信じるお祈りをしました。私は、その時にイエス様との出会いを経験しました。その後の私の歩みは、信仰的だったかというと決してそうではなく、神様の御心からは遠く離れた生き方だったように思います。しかし、イエス様は、私を決して離さず見捨てず、私に救いの確信を与え、洗礼の決心へと導いてくださいました。高校1年生の時でした。私は、イエス様を見たことはないけれどイエス様の愛を受けイエス様を愛して歩ませていただいています。私は、イエス様を見てはいないけれど、信じる信仰を与えられ、救いと言う大きな感謝に満たされています。私は、イエス様以外に救いはないという恵みを一人でも多くの人に知っていただきたいと心から願っています。

 皆さんは、いかがでしょうか。既にイエス様を信じているという皆さん、救いの喜びと感動は失われていないでしょうか。今でも救い主イエス様のことを証ししたいという熱意を持って祈り続けることが出来ているでしょうか。まだ、イエス様への信仰を表明していない皆さん、今、救い主イエス様との出会いが与えられています。イエス様こそ救い主です。イエス様こそ罪を赦し、私たちを救い、永遠のいのちを与えてくださるお方です。イエス様こそ、私たちに平安を与え、栄に満ちた、神様の祝福に満ちた、大きな喜びで満たしてくださる救い主です。この方を受け入れませんか。信仰の結果であるたましいの救いを得ることが出来ます。

 私たちは、一年を終わるにあたり、この一年の感謝を主にささげましょう。一年の歩みの中では様々なことがあったことでしょう。その中でも「主の良くしてくださったこと」を思い返しましょう。主が良くしてくださったことを書き出してみてはいかがでしょうか。その時、私たちの心には主への感謝が溢れることでしょう。
 そして何よりも私たちは、救い主との出会いが与えられ、神様からの祝福が与えられ、栄に満ちた喜びに踊り、たましいの救を与えられていることを感謝し、主の御名を賛美しましょう。

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。救い主イエス様との出会いは、シメオンとアンナに大きな喜びをもたらし、感謝の賛美と祈りがささげられました。今も私たちは、救い主との出会いによって大きな喜びと救いの恵みを受け感謝に溢れさせていただけることをありがとうございます。私たちは、シメオンのように救い主イエス様を喜びほめたたえ、アンナのように救い主イエス様のことを多くの人に伝えます。
 一年が終わろうとしているこの時、私たちは、神様が良くしてくださったことを何一つ忘れず、感謝の祈りをささげます。神様がこの一年も守り、支え、祝福してくださったことを心からありがとうございます。
 この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」