2024年1月14日(日)礼拝説教 マタイの福音書5章13-16節 「地の塩 世の光」 説教者:赤松勇二師、CS説教:赤松由里子師

<子どもたちへ>
 イエス様は山の上で色々大切なことを教えて下さいました。先週は「心の貧しい人は幸いです」と、普通とは逆に思えることを教えて下さいましたね。今日はその続きです。イエス様はこうおっしゃいました。「あなたがたは地の塩、世の光です。」塩と光?どういうことでしょうか?

 塩についてまず見て行きましょう。塩は味付けに欠かせないものです。塩をふるのを忘れたおにぎりでは物足りないですよね。砂糖や酢では代わりになりません。塩は塩気をつけるからこそ欠かせません。また野菜やお肉、魚など、食品を塩漬けにすると腐りにくくなりますね。大切な働きです。
 ですから「あなたがたは地の塩です」とはこういう意味になります。「みこころにかなうように生活しようとする人たちは、まわりに欠かせない良い影響を与えることが出来ます。また全体が悪に染まるのを防ぐ存在です」という意味です。

 こんな大事な役目、自分は出来ないよ、と思うでしょうか?イエス様はおっしゃいます。「塩が塩気を無くしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。」(13節)。塩気のない塩、って想像しにくいですね。でもイエス様の時代は岩塩が多かったようで、岩の中から塩の結晶を取り出して使ったそうです。塩の成分がなくなった部分は捨てられて土にかえったので、こういわれているのです。
 私たちが神様に愛されている者、クリスチャンとして行動するのをやめてしまったら、塩気を無くした塩のようになってしまいます。それでは残念ですね。地の塩になろう、ではなくて、「地の塩です」とはっきり言われています。神様を信じる自分に誇りをもって、神様のこどもとしての良い性質を生かす歩みをしていきましょう。神様にその勇気を与えて頂けるよう祈りましょう。

 続いてイエス様は「あなたがたは世の光です」とおっしゃいました。明かりが必要だ、と感じるのはどういう時でしょうか?暗闇ですね。以前バイブルキャンプの時に、持ち物リストに「懐中電灯」とありました。でも家族全員分の数は持っていませんでした。「会場に外灯はあるだろうし、家族と一緒なら大丈夫かな?」と思って少なめの本数で参加しました。いざキャンプファイアーの時間になり、外に集合すると、会場は本当にまっくらです。みんな自分の足元を照らすので精一杯、懐中電灯のない私はおっかなびっくり家族に着いていったのを覚えています。明かりがないと本当に危険なのです。でも光があると、危険を避け安心して進むことが出来ます。

 私たちが生きて行くときも、光であるイエス様の近くを歩むことがどうしても必要です。しかも暗闇の懐中電灯と同じで、一人ひとりがしっかりイエス様の光を持つことが必要です。お父さん、お母さんの信仰があれば十分、ということはないのです。そういう人は、イエス様の光を知らずしらずに反射させるようになります。そしてその人も光を届ける存在になれるのです。私たちがイエス様によって進むべき道を照らされて、ほかの人にも「この道が安心だよ、この道でいいんだよ」と知らせることが出来る、それが「あなたがたは世の光です」の意味です。


 明かりをつけたら、ろうそくでも懐中電灯でも、箱やポケットに隠すことがしませんね。それはとっても不自然なことです。明かりのある意味がありません。イエス様はおっしゃいました。「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです」(16節)。
 私たちは、地の塩、世の光としての自分を隠さないようにして行きましょう。そのことで、神様がほめたたえられるようにお祈りしましょう。また神様に勇気と喜びを与えて下さるようお祈りしていきましょう。

<祈り>
「神様、私たちを地の塩、世の光として下さったことを学びました。自分にそんな力と役割があるのかと、おどろかされますが、神様がそうして下さったことを信じます。塩そして光としての良い役割を果たしていけるように、神様の恵みで支えて下さい。塩気をなくしたり光を隠したりせず、神様の子どもとして歩んで行けますよう勇気を与えて下さい。御名によってお祈りいたします。アーメン。」

「あなたがたは地の塩です。…。あなたがたは世の光です。」
                         マタイの福音書5章13、14節

<適用>
 お料理で塩加減をちょうど良い感じの時「良い塩梅」と表現することがあります。私は、時々料理をしますが、いつもこの「塩梅、塩加減」で悩みます。味が濃すぎたり、薄すぎたり、時には味見を繰り返すうちにどんな味を求めているのか分からなくなってしまうことがあります。子どもたちには、「同じ野菜炒めでも、いつも味が違うね」と言われてしまいます。安定した塩梅は難しいものです。
 音が聞こえるスピードと光が見えるスピードで、どちらが早いか調べてみました。光のほうが断然早いようです。光は、1秒間に30万㎞進むそうです。これは1秒間に地球を7周半するだけの速度ということです。音は、1秒間に約340mの速度で伝わるそうです。雷の光と音がずれるのはそのような理由があります。ですから私たちは、光った瞬間にその光を見ることが出来るわけです。光の情報はいち早く遠くに届き、誰にでも見えるということです。
 イエス様が言われた「地の塩、世の光」というのは、どのようなことなのでしょうか。ご一緒に見ていきましょう。

Ⅰ;塩気を保つ

 まず、私たちは、「塩気を保つ」ことを心に留める必要があります。イエス様は、「あなたがたは地の塩です。」と言われました。これはどのようなことを意味しているのでしょうか。この言葉を理解するためには、「塩」の持つ特性に目を向ける必要がありそうです。塩には、「防腐剤」としての役割と「味を調える」という働きがあります。イエス様は、私たちがこの地にあって、この二つの働きをすることが出来ると言われたのです。

 ここでイエス様が、この地をどのように見ていたのかが気になります。イエス様は、この地には「防腐剤」が必要だと考えておられたのです。という事は、イエス様は、この地は腐敗していると見ていたという事ではないでしょうか。聖書は、「はじめに神が天と地を創造された(創世記1:1)」と教えています。この天地は、創造主なる神様によって造られました。そして神様は、人間を人間として創造し、いのちの息を吹き込み、生きる者としてくださいました。その創造のみわざの中で、神様がこの世界をどのように見ておられたのかが書かれています。「神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった(創世記1:31)」と言われています。神様にとって、創造された世界は非常に良かったのです。そして神様と人とは、とても完全なきよい交わりを持つことが出来ていました。けれども、そこに罪が入ってきました(創世記3章)。人は、神様に従うよりも罪に誘惑され、自己中心に生きることを選び取りました。その結果、人は罪ある存在となり、神様との関係は崩れ去りました。そして人類は、罪による堕落の道を突き進むようになったのです。旧約聖書の時代も、イエス様の時代も、人々は、神様に背を向け、神様の御心からかけ離れた罪の道を進んでいました。それは、今も変わることはありません。神様から離れ、神様を知らず、自己中心に生きる人間は、罪の中を突き進むこととなります。それが私たちの時代であり、この地の人々の心の現状です。

 だからイエス様は、この地には「塩」が必要だと言うのです。そしてその「塩」は、「あなたがた」とあり、イエス様を信じる私たち一人一人なのです。なぜならば、私たちは、イエス様の十字架の贖いを信じる信仰によって罪赦され、救いの素晴らしさを証しすることが出来るからです。まず私たちは、「地の塩」として、イエス様の救いとイエス様に従うという生き方を証しすることで、人々に間違いを指摘することが出来ます。

 もう一つ、「塩」には、味を調えるという大切な役目があります。もし塩がなかったら、私たちが作るどんな料理も味にしまりがなく、美味しくはならないでしょう。最初に料理の味付けについて「良い塩梅」と言うことを触れました。この「塩梅」というのは、料理だけではなく、物事が順調に進んでいることにも、体の調子が良い時にも「塩梅が良い」と使います。イエス様は、私たち一人ひとり、主イエス様を信じて従うことを願う一人ひとりが、この地に「良い塩梅」をもたらすことが出来ると言われたのです。あなたは、地の塩として「良い塩梅」をもたらすことが出来ているでしょうか。

 私たちは、私たちがいる環境や人間関係に良い影響を与えることが出来るのです。丁度良い塩加減とは、私たちがその場にいることで主の臨在を示すことが出来る態度のことです。そして良い塩梅とは、私たちが、人の心に響く言葉、人を力づけ励まし、立ち上がらせる言葉を用いるということでしょう。私たちは、いつもそのような者でありたいと願います。私たちは、家庭にあっても、友達との間にあっても、会社の中でも、地域の中でも、相手の心を励まし力づけ有益な言葉で話したいと願います。けれどもなかなか、丁度良い言葉にならず、人を傷つけてしまったり、こちらの気持ちを伝えることが出来なかったりするのです。そのような意味で、私たちは、塩加減や塩気を保つことの難しさを感じます。

 イエス様は、塩気を保つようにと言われました。実際に塩に塩気がなくなったら何の役にもならず、捨てられてしまいます。私たちに当てはめたら「塩気を保つ」とは、私たちが聖書の御言葉から学び、塩味の聞いた言葉や行動を通して福音を示すということです。私たちは、塩味の効いた、防腐剤となるような言葉や態度を示すことが出来ます。それは、イエス様によって可能となります。私たちは、イエス様によって、地の塩となるのです。皆さんは、いかがでしょうか。

Ⅱ;光として輝く

 イエス様は、「あなたがたは世の光です」とも言われました。二つ目に見ることは、「光として輝く」ということです。光にも大切な役割があります。塩と同じに私たちは、光を毎日使っています。私たちの生活の中で光は、欠かすことの出来ないものです。私たちは、暗くなったら蛍光灯やライトをつけます。なぜなら、明かりがないと生活できないからです。

 また「光」は、私たちの心に温もりを与え、希望を与えます。私たちは、太陽の光があるから、温かい日々を過ごすことが出来ます。そして私たちは、太陽の光と暖かさがあるので、健康を維持することが出来ます。私たちは、自立神経のバランスが崩れると気持ちが沈み、元気がなく、心も体も力が出なくなります。この自律神経のバランスを整えるために大切なことは、朝の日を浴びて体をリセットすることだと言われています。ですから、毎日、朝日を浴びること、一日のうちで日が出ていて暖かい時間に外に出ることをお勧めします。太陽の光は、私たちの体に良いし、寒い冬の朝を一気に暖かさで包み込んでくれます。また私たちは、街灯の少ない暗い夜道を歩いていて、時々道を照らす光を見ると安心するものです。食卓に明かりがあると一段と温かみが増し、食欲を刺激します。光の効果は、上げればきりがありません。イエス様は、私たちがこの世にあってそのような光だと言われました。

 ここでイエス様が「世の光です」と言った意味を考えてみましょう。イエス様は、この世には「光」が必要だと考えおられました。という事は、この世が「暗闇」だという事なのです。先ほど、神様が造られた世界は、全てが良かったと言いました。神様によって造られた世界は、神様の光に照らされ素晴らしい世界だったのです。しかし人が罪を犯したことによって、この光を失いました。人が、神様から離れ、光に背を受けた結果、人が見るのは罪の世界であり、この世は闇の世界となりました。全ての人は、光を失い、闇の中を手探りして生きているのです。
 私たちは、イエス様を知る前は暗闇の中で右も左もわからず生きていました。私たちは、何とか人生を良くしよう、自分の人生を照らそうと頑張って生きていますが、その生き方には、限界があります。私たちは、自分の力では本当の生きる道、人生の目的を見出すことが出来ません。なぜなら私たちは、自分自身では人生を照らす光を持てないからです。この世で光を手に入れたと思っても、それはいつか消えてしまい、さらに濃い暗闇に陥ってしまうこともあるのではいでしょうか。

 しかしイエス様は、世の光として私たちを照らしてくださるのです。イエス様は、ご自身のことを「わたしは世の光です。(ヨハネ8:12)」と言われました。イエス様は、私たちを照らす光です。イエス様は、私たちが暗闇から抜け出し、光の中を歩むことが出来るように導いてくださいます。イエス様は、罪のために神様から離れ冷え切った私たちの心を照らし、暖め救いを与えくださるのです。そのためにイエス様は、私たちの罪を背負い十字架にかかってくださいました。イエス様は、私たちが罪の闇に覆われて、力なく生きるのではなく、私たちがイエス様の救いの光に照らされ輝いて生きる事が出来るようにしてくださったのです。ですから、私たちは、誰もが光の中を生きることが出来ます。

 そしてイエス様は、そのような暗闇の世にあって、私たちが光だと言われました。この「あなたがた」と言われている言葉は、強調されている言い方でもあり、「あなたがたこそ」という意味があります。これは「地の塩」の部分でも同じです。イエス様は、「あなたがたこそ地の塩であり、あなたがたこそ世の光です」と言われたのです。イエス様は、「光となるように努力しない」と言いませんでした。イエス様は、「あなたがたは、あなたがたこそは、世の光です」と言われたのです。「地の塩」も同じです。「地の塩」となれるように頑張りなさいではないのです。私たちは、イエス様によって「地の塩」とされ、イエス様の恵みを証しすることが出来るのです。「世の光」として輝くこともイエス様によって可能となります。私たちは、イエス様の光を心のうちに持ち、その光によって世の光として輝くことが出来るのです。あなたは、イエス様によって輝くのです。そのことを信じますか。

Ⅲ;証しし続けよう

 私たちは、地の塩、世の光としてイエス様を証しし続けましょう。
 すでにイエス様を信じている皆さん、「地の塩」「世の光」とされていることを信じて歩みましょう。「世の光」として生きるとは、人々にイエス様の愛の恵みを証しすることです。私たちが、心から主なる神様を礼拝し、神様の御心を行うことです。イエス様は、私たちが輝くのは、「あなたがたの良い行いを見て、人々が天の父をあがめるようになるため(マタイ5:16)」と言われました。パウロは、私たちが良い行いに歩めるように神様が、良い行いをあらかじめ備えてくださると教えています(エペソ2:10)。イエス様は、私たちを通して神様の栄光が現され、私たちを通して多くの人々が主なる神様を礼拝するようになると言われました。そのためにイエス様は、私たちを輝かせてくださるのです。

 まだクリスチャンでない人も、諦める事はありません。誰でもイエス様によって照らされて歩むことが出来ます。イエス様は、あなたの心を照らし、あなたの人生を照らしてくださいます。イエス様は、私たちが暗闇に縛られるのではなく、闇から解放され、罪の赦しの恵みを受けて、光の中を歩むことが出来るようにしてくださるのです。イエス様は「わたしは世の光です」と言われ「わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます(ヨハネ8:12)」と言われました。イエス様の救いを信じ、いのちの光をいただいて歩みましょう。

 皆さん、イエス様は「あなたがたは地の塩です。…。あなたがたは世の光です。」と言われました。イエス様は、私たちに塩気を与え、光で照らしてくださいます。「地の塩、世の光」として主の栄光を現して歩みましょう。

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。イエス様は、「あなたがたは地の塩です。あなたがたは世の光です。」と言われました。私たちは、イエス様によって地の塩、世の光として歩みます。神様の御心に従い、神様の栄光を証ししつつ歩みます。イエス様、私たちが塩気を保つことが出来るように力を与え、導いてください。イエス様、私たちを照らし、心のうちから輝かせてください。そのことを通して、私たちの周りの人たちが神様のすばらしさを知ることが出来るように導いてください。
 神様、能登半島地震で被災された方々を慰め励まし、復旧、復興にあたっている方々を守ってください。紛争が続いている地域があります。戦争が一刻も早く終わり平和が訪れるように御手を差し伸べてください。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」