2024年2月11日(日)礼拝説教 ヨハネの福音書11章17-37節 「涙を流されたイエス」 説教者:赤松勇二師 CS説教:赤松由里子師

<子どもたちへ>
 先週までイエス様が山の上でお話された「山上の説教」を学んできました。今日からはイエス様が十字架にお架かりになる時期のお話になります。
 ここはベタニア村、エルサレムの近くです。マルタ、マリア、ラザロという兄弟が住んでいました。3人ともイエス様を心から信じて大好きでした。イエス様も時々3人の家に立ち寄って、お食事をしたり話をしたりしていました。

 さてある日のことです。イエス様の所に使いの人が来ました。「イエス様、大変です。ベタニア村のラザロが病気で今にも死にそうです。どうかすぐに来て下さい!」これを聞いてイエス様は言われました。「この病気は死で終わるものではありません。神様の栄光のためのものです。」こう言って、イエス様はすぐには出かけず、なぜだかその場所に留まっていました。

 2日経った時です。イエス様は言われました。「さあ、ラザロを起こしに行きましょう。」ベタニア村についてみると、ラザロが亡くなってもう4日目になっていました。マルタがやってきてイエス様に言いました。「イエス様、あなたがここにいて下さったら私の兄弟は死ななかったでしょうに…。」するとイエス様はおっしゃいました。「ラザロはよみがえります。」そしてとても大切なことをおっしゃいました。今日の聖句を一緒に読みましょう。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)。そしてマルタに聞きました。「あなたはこのことを信じますか?」マルタはその言葉の意味が良くわかりませんでした。でもこう答えました。「はい、私はイエス様を神の子キリストだと信じています!」
 妹のマリアもやってきて「もしここにいて下さったら、私の兄弟はしななかったでしょう。」と言って泣きました。周りの人たちも泣きました。イエス様はどうでしょう…?イエス様の目からも涙が流れていました。

 イエス様はラザロのお墓の前に立ち、入り口の大きな石をどかすように言いました。マルタはびっくりです。「お墓に入れて4日もたっているのですよ…(やめておきましょうよ)」と止めました。でもイエス様は言いました。「信じるなら神の栄光を見る、と言ったではありませんか」。そして「彼らがわたしを信じることができますように」とお祈りしてから、大声でこう言われました。「ラザロよ、出てきなさい!」
 すると、死んでいたラザロが、頭から足まで布でぐるぐる巻きにされたまま、お墓から出てきたではありませんか。みんなびっくりです。「ラザロが生き返った!イエス様がよみがえらせたんだ!」これを見た人たちの多くがイエス様を信じました。

 この出来事は、イエス様がいのちをも支配しているお方だと私たちに教えます。人はいつか必ず死にますが、死で終わりではない、というのが聖書の教えです。信じるなら神の栄光を見る、とイエス様はおっしゃいましたね。イエス様を救い主と信じ、神様の救いを受けた人には、死の先にも希望があるのです。よみがえりと永遠のいのちがイエス様によって与えられるからです。
 人はみな、いつか必ず死ぬ時を迎えます。だからこそ永遠のいのちの希望は、私たちにとって一番大切なことです。イエス様を信じて、死で終わらない希望を受け取って歩んでいきましょう。

<祈り>
「神様、イエス様がラザロを生き返らせたお話を学びました。「わたしはよみがえりです、いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです」と言われたイエス様に、「はい、私は信じます」とお応えします。どうか私に罪の赦しと永遠のいのちをお与え下さい。御名によってお祈りします。アーメン。」

「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」                   ヨハネの福音書11章25節

<適用>
 私が小学5年生からの2年間の担任は、とても厳しい男性の先生でした。年齢は、おそらく50代後半くらいだったと思います。その時は、5年の担任が6年の時もそのまま担任になるということだったので、私は5年生の始業式の帰りに友だちと「2年間辛いな~」と話しながら帰ったのを覚えています。その先生は、基本的には厳しい先生でしたが、優しい一面もあるとても良い先生だったと思います。その厳しい先生が、卒業式の時生徒を見送りながら涙を流したというのです。卒業式の後教室で最後の時間を過ごし、一人ひとりが先生に挨拶をして教室を出ました。私が先生に挨拶した時にはいつもと変わらない様子でしたが、後から出てきた友だちが「先生泣いてたぞ」と教えてくれました。私は、「うそ!」と思いながら、先生の泣き顔を見に戻ろうかと思いましたが、最後の最後で叱らせそうだったので戻りませんでした。先生なりに、生徒との別れを惜しんでくだれたのだと思います。
 今日は、イエス様が涙を流された出来事です。イエス様の涙には、私たちへの憐れみと罪への憤りがあるように思います。ご一緒に見ていきましょう。

Ⅰ;私たちへの憐れみ

 涙を流されたイエス様、その涙には私たちへの憐れみがにじみ出ています。ヨハネ11章35節の「イエスは涙を流された」は、旧新約聖書中最も短い節です。とっても短い言葉なのですが、イエス様の心の思いが溢れ出ている表現です。
 イエス様は、ベタニアのマルタ、マリア、ラザロの兄妹姉妹を愛しておられました。マルタとマリアは、ラザロの死という現実を前にして打ちのめされ、悲しみのどん底にいました。イエス様は、マリアの涙をご覧になり、涙を流されたのです。それは、イエス様が、マルタとマリアの悲しみに寄り添い、共に泣いて下さった証拠です。

 少しヨハネ11章の出来事を振り返ってみましょう。ユダヤの地を離れてヨルダン川の東に退いて宣教活動をしていたイエス様のもとにラザロ急変の知らせが届きました(11:1-3)。弟子たちもこの知らせを聞いていたでしょうから、すぐにでもイエス様が行動を起こすだろうと思ったのではないでしょうか。しかしイエス様は、この知らせを聞いてもなお2日、ヨルダン川の東側に留まっているのです。
 おそらくベタニアから使いを出したマルタとマリアは、イエス様が知らせを聞いたらすぐにでも来てくれると期待したことでしょう。私たちも読んでいてそう考えるのではないでしょうか。すぐに行かないまでも、イエス様が「ラザロは治る」と宣言すれば、ラザロを癒す事が出来たはずです。イエス様は、それもしませんでした。何故なのでしょうか。イエス様には、マルタたちや弟子たちの(そして私たちの)考えを超えたご計画があったからのです。

 2日後、イエス様は、ようやくユダヤに行こうと言われました。弟子たちは、それは危険であると進言します(6-8)。弟子たちは、エルサレムで石打にされそうになったことを鮮明に覚えています(ヨハネ10:22-30)。しかもユダヤ人たちは、イエス様を捕え、殺す計画を立てているのです。弟子たちは、そのことを良く知っていました。当然イエス様も知っていました。けれどもイエス様は、ユダヤに行く、ベタニアに行く必要がありました。それは、ラザロをよみがえらせるためです。イエス様は、この奇跡を通して、イエス様ご自身にいのちがあることを弟子たちが信じることを願っていたのです。「その場に居合わせなかったことを喜んでいます」というイエス様の言葉は、ラザロのよみがえりによって神様の栄光が示されること、イエス様ご自身にいのちがあることが明らかになることを意味しています。

 このように物事を遅らせているからイエス様には愛がないと考えてはいけません。私たちにはイエス様が遅れていて何もしていないと見えることでも神様には神様のご計画があるのです。ヨハネは、そのことを「愛」と言う言葉で説明しているように思います。マルタから遣わされた人は、「あなたが愛している者」と言いました。これは「フィレオ―」という人間が持つ愛の感情を意味しています。しかしヨハネは、イエス様がマルタたちに抱いていた愛は、「アガペー」の愛だと言います。ヨハネ11章5節の「イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。」の「愛しておられた」にヨハネは「アガペー」を使いました。これは、神様の愛、神様の恵みと祝福に満ちた愛という意味があります。イエス様は、マルタとマリア、そしてラザロを心から、神様の恵みで満たし、祝福を与えるほどに愛しておられたのです。

 だから、イエス様は愛がなく意地悪で何もしていなかったわけではないのです。そこには神様の計画があり、神様の人知をはるかに超えた栄光のみざわがあるのです。私たちは、マルタとマリアのようにイエス様がすぐにでも御心を示し、導き、みわざを行ってくださると考えます。けれどもイエス様が、何をしておられるのか分からない時、イエス様が物事を遅らせていると感じる時があるかもしれません。私たちは、自分が考える「ふさわしい時」と神様の考えている「ふさわしい時」の違いにイライラすることがあるかもしれません。私たちは、直面している事柄の中で、この先どうなるのか分からなくて、不安になり、信仰が揺らぐこと、悲しみ、意気消沈することもあります。そのような時私たちは、しっかりと思い出す必要があります。それは、イエス様には、イエス様の時があり、神様には、神様の最も良いと考える時があるということです。そしてイエス様は、どんな時にも私たちを愛してくださり、恵みと祝福で満たしてくださるということです。
 そしてイエス様は、私たちと共に涙を流してくださるお方であるということです。イエス様は、いつも私たちと共にいて、私たちに寄り添い、私たちを力強い御手で支えてくださるのです。

Ⅱ;罪に対する聖なる怒り

 涙を流されたイエス様の心には、罪と死をもたらすサタンへの怒りが溢れています。「イエスは涙を流された。」と言われている前にヨハネは、イエス様の感情の動きを書いています。イエス様は、「霊の憤りを覚え、心を騒がせて」ラザロをどこに埋葬したのかと聞きました(11:33-34)。この時、イエス様はマリアと一緒にいた人たちが泣いているのを見て涙を流されました。それは先ほど見たとおりです。

 この時のイエス様は、マルタとマリアの悲しみを共有してくださっただけではなく、人の死の現実、そして死という結果をもたらす罪とその背後にいるサタンに対して憤っておられたのです。「憤りを覚え」と訳されているギリシャは、直訳すると「憤激する」とか「憤怒する」という激しい怒りを意味しています。イエス様は、罪と死をもたらすサタンの暗闇の力に対して激しく霊の怒り、激憤を覚えたのです。全ての人は、罪を犯し、神様に背を向けているために、「死」という神様の裁きを受けます。そして人は、この罪から来る報酬である死に絶望感を持ちます。
「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、(ローマ3:23)」
「罪の報酬は死です。(ローマ6:23)」
 イエス様は、ラザロの死と目の前にいる嘆き悲しむマルタとマリアの姿を通して、人類が直面する現実を深く、深く、感じたのです。そしてイエス様は、人間に絶望しか与えないサタンの支配、暗闇の力に対して憤っておられたのです。イエス様は、この後しばらくして、罪と死、サタンの支配に立ち向かわなければなりません。イエス様だけが、この暗闇の支配に対して立ち向かい、勝利する力を持っておられるのです。

 イエス様は、ラザロが葬られている墓に案内されました。誰もがラザロの死は確実で、生き返ることなど不可能だと認めていました(39)。けれどもイエス様は、ただ一人、大いなる可能性を知っていたのです。墓から石が取り除かれるとイエス様は、父なる神様に感謝をささげてから、大きな声で「ラザロよ。出て来なさい(43)」と言われました。するとどうでしょうか、ラザロがよみがえり、ぐるぐる巻きにされたまま出てきたではありませんか。
 イエス様は、死を打ち破り、罪と死の束縛から私たちを解放してくださる唯一のお方です。イエス様だけが、罪と死、永遠の滅びからの救いという解決を与えてくださるお方です。皆さんは、イエス様による解決を持っているでしょうか。ラザロの急変の知らせを聞いた時にイエス様は、「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです(4)」と意味深なことを言われました。ヨハネの福音書で「神の栄光」と言われた時、その意味することは、イエス様の十字架と死、そして復活のことを現しています。イエス様が「居合わせなかったことを喜んでいます(15)」という言葉も、イエス様の救い主としての御力が現され、弟子たちが主なる神様を信じる信仰へと導かれることにつながるということを意味しています。

 そしてもう一つイエス様の大切な言葉を心に留めましょう。それはヨハネ11章25節です。イエス様は、マルタに「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」という大切な真理を教えてくださいました。これは、イエス様にいのちがあり、イエス様を信じる者は永遠のいのちの約束を与えられるということです。実は、ラザロが病で死んでしまったのは、イエス様が十字架にかけられる直前の出来事でした。イエス様は、ラザロの死とよみがえりを通して、ご自身がこれから通る十字架の死と復活を予め示しておられたのです。ラザロのよみがえりは、地上のいのちでした。しかしイエス様は、永遠のいのち、天の御国へと続くいのちを持ってよみがえり、信じる全ての人に永遠のいのちを与えるのです。イエス様は、私たちの罪のために十字架にかかり、私たちの身代わりに神様の裁きを受けて死なれました。けれどもイエス様は、死を完全に打ち破り、復活され、今も生きておられます。だからイエス様を信じる人は、永遠のいのちを受け「決して死ぬことが」ないのです。もやは、死は終わりでも絶望でもなく、イエス様を信じる全ての人にとって天の御国へと続くこととなるのです。ここに永遠の希望の約束があります。

 イエス様は、マルタに「あなたは、このことを信じますか(ヨハネ11:26)」と聞きました。イエス様は、今日も私たちに「あなたは、このことを信じますか。」と問いかけています。皆さんは、どのように答えるでしょうか。私たちは、「はい主よ。今日も私は、あなたを信じます。イエス様の十字架の救いを信じます。永遠のいのちが与えられ、永遠の希望の約束があることを信じます。」と告白しましょう。
 イエス様は、私たちの心に寄り添い、共に涙を流してくださるお方です。イエス様は、私たちを罪から解放し、永遠のいのち、天の御国に続くいのちを与えてくださるお方です。

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。イエス様が、私たちの心に寄り添い、私たちと共に涙を流してくださり、慰め励ましてくださることを心から感謝いたします。
 私たちは、イエス様が、よみがえりであり、いのちであることを信じます。イエス様は、十字架の救いを信じる者の罪を赦し、永遠のいのち、天の御国へと続くいのちを与えて下さることを感謝致します。この永遠の希望の約束をしっかり握って歩みます。どうか私たちを主ご自身の栄光の中で導いて下さい。
 神様、能登半島地震で被災された方々の歩みを守り、支えてください。復旧と復興の作業を進めている方々を守ってください。また神様、戦争が続いている地域では、戦闘が終わり、平和への道筋が確立されるように導いてください。一人でも多くの人がイエス様の与えて下さる、永遠の希望の約束を信じて、神様による希望をもって生きることが出来るように導いて下さい。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」