<子どもたちへ>
皆は、寝ている時に夢を見ることがあるでしょうか。僕は、子どものころ目の前に美味しそうなお料理が出てくる夢を何度か見たことがありました。当時は、たくさん食べていたし、食べることが大好きだったのでそんな夢を見たのでしょうね。目の前の料理を「いただきます。」と食べようとすると「起きなさ~い。」という声がするのです。僕は、「あー、食べられなかった。あと少しだったのに!」と言いながら目を覚ましました。お料理の夢は、いつもこんな感じでした。皆は、どんな夢を見るでしょうかね。
先週までは、ヤコブのお話をしていました。今日からは、ヤコブの子どものヨセフについて学びましょう。ヨセフは、ヤコブの11番目の息子で、ヨセフの上には10人のお兄さんたちがいます。そしてヨセフは、時々夢を見ていたのです。しかもその夢は、何か意味がありそうな内容でした。
「お兄さん、お兄さん、僕不思議な夢を見ました。聞いてくださいよ。僕とお兄さんたちが、畑で作業していると僕の作った束がすっと立ち上がって、お兄さんたちの束がお辞儀をしたのです。不思議でしょう。」自慢して話すヨセフですが、聞いていたお兄さんたちは、「なんだその夢は、お前が俺たちよりも偉くなるとでもいうのか!」と怒り出しました。お兄さんたちは、ヨセフのことが嫌いでした。その理由は、ヨセフの夢だけではなくヨセフがお父さんのヤコブから特別扱いされているし、とても高価な洋服も作ってもらっていたからです。
また別な日にヨセフは夢を見ました。「ねぇ~、ねぇ~、お父さんとお兄さん聞いてください。僕また夢を見ました。今度は、太陽と月と11個の星が出てきたのです。この太陽と月と11個の星が僕を拝むのです。とっても不思議なんですよね。なんか僕は、偉い人になっちゃうのかな?」ヨセフがまた自慢して話します。今度はお父さんのヤコブがヨセフを注意しました。でもお兄さんたちは、ヨセフがもっと嫌いになり、怒りがおさまりません。ヨセフとお兄さんたちの関係は、どんどん悪くなるのです。
ある時、お父さんのヤコブが「ヨセフ、羊の群れを連れて放牧に出ている兄さんたちの様子を見てきてくれないか。」と言います。ヨセフは「はーい。行ってきます。」と言って出かけていきました。お兄さんたちは、たくさんいる羊の群れに餌を与えるために、草が生えている場所を転々と一定期間旅をすることがありました。ヨセフは、お兄さんたちを探し回ってやっと見つけました。「あっお兄さんたちだ。おーい、」喜ぶヨセフです。一方お兄さんたちは、「おい、見ろよ。夢見るヨセフがやって来るぞ。今はお父さんもいないし、ヨセフを懲らしめてやろうか。」お兄さんたちは、遠くにヨセフを見つけて、何か悪いことを話し合いました。そしてヨセフを捕らえて、洋服をはぎ取って、ヨセフをどうしようかと話し合いました。するとユダと言う人が「あそこに、商売をしながら旅をしている人たちがいるじゃないか。ヨセフを売り飛ばしてしまおう。」そう言って、お兄さんたちはヨセフを売ってしまいました。ヨセフは、奴隷として売られ、知らない土地へと連れていかれることとなってしまいました。そしてお兄さんたちは、羊を屠ってその羊の血をヨセフの服につけて、「お父さん、ヨセフは獣に襲われてしまいました。」と報告をするのです。
売られてしまったヨセフはどうなったかと言うと、エジプトの王様に仕えている侍従長のポティファルという人のところに買い取られて奴隷として働くこととなりました。ヨセフは、突然奴隷として売られ、家を離れエジプトに連れてこられるのです。悲しみ泣くヨセフです。でもヨセフは、大丈夫でした。なぜなら神様が一緒にいてくださったからです。神様は、ヨセフを守ってくださり、成功させてくださいました。神様は、皆一人ひとりといつも一緒にいて守ってくれます。だから僕たちは、どんなことがあっても大丈夫です。ヨセフと一緒にいてくれた神様は、今も僕たちと一緒にいてくれます。そのことを信じて神様にお祈りして、神様に教えてもらいながら歩みましょう。今週の聖句を読みましょう。
「人の心には多くの思いがある。しかし、主の計画こそが実現する。」箴言19章21節
<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。ヨセフは、お兄さんたちの悪い計画のために奴隷として売られてしまいました。けれども神様は、ヨセフと一緒にいてくれました。神様は、今も僕たちと一緒にいてくださることを感謝いたします。神様、どうぞ毎日の生活を導いてください。この祈りをイエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」
「人の心には多くの思いがある。しかし、主の計画こそが実現する。」
箴言19章21節
<適用>
私たちは、自分の人生について様々な計画を立てます。身近なことでは、今日一日の予定、食事のメニューの予定など日々の生活について計画を持ちます。少し時間を広げると、今月の予定とか今年の予定(計画)と言うことになります。もっと長期的なことになると、私たちは、自分の将来について計画を持ちます。この長期的な計画については、多くの場合必要な変更を加えながら計画を進めていくことになるでしょうか。人生の計画の変更というのは、私たちの視点から見ると「突然の変更」となるのですが、神様の視点から見ると「神様の計画、導き」という見え方になっていきます。ヨセフの生涯を見る時にそのことが分かるのです。神様は、私たち一人ひとりのために計画を持っておられます。
Ⅰ;静かに進んでいきます
神様は、計画を持っています。この計画は、静かに進んでいくこととなります。創世記37章からは、一人の人物を中心に話が進められていきます。その人物とは、ヤコブの11番目の息子のヨセフです。ヤコブは、叔父ラバンのもとから故郷に帰り、エサウと仲直りをすることが出来ました。その時、ヤコブは神様の取り扱いによって謙遜が与えられ、イスラエルと言う名前をもらうこととなりました。こうしてヤコブは、神様の約束の地カナンに住むことが出来るようになりました(1)。このヤコブの歴史が37章2節以降に記録されているのです。けれども聖書は、「これはヤコブの歴史である。ヨセフは17歳のとき、…」と書いています。ヤコブの歴史と紹介しつつ始まるヤコブの歴史は、その息子ヨセフを中心に記録されることとなりました。それは、ヤコブの12人の息子たちがどのようにイスラエル民族を形成するようになるのか、どうしてイスラエルの歴史が出エジプトにつながっていくのかを明らかにするという目的があります。
まずここに神様の計画が静かに進んでいるということを知ることが出来ます。創世記37章以降には、いずれイスラエルが民族としてエジプトを脱出するという、出エジプトにつながる発端が記されることとなります。このイスラエルの出エジプトは、神様の思い付きや、気まぐれではありません。実は、神様はすでにアブラハムに語っていました。しかもアブラハムに子どもが与えられ子孫が増えるとの約束を更新する時に語られるのです。創世記15章13~16節「主はアブラムに言われた。『あなたは、このことをよく知っておきなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない地で寄留者となり、四百年の間、奴隷となって苦しめられる。…。その後、彼らは多くの財産とともに、そこから出てくる。そして、四代目の者たちがここに帰ってくる。…。』」
神様は、アブラハムのひとり子イサクが生まれる前に、すでに神様ご自身の計画を明らかにしておられました。これは、アブラハムの子孫がどのように神の民として整えられ、約束の地カナンを受け継ぐのかという神様の計画でした。この神様の計画がアブラハムに語られ、イサクが生まれ、エサウとヤコブが生まれます。そしてアブラハムへの祝福の約束は、イサクに受け継がれ、ヤコブに継承されることとなりました。そしてヤコブの12人の息子たちが12部族となり、契約の神の民となるのです。イサクとヤコブは、アブラハムへの祝福と共に「自分たちの知らない地で寄留者となり、四百年の間、奴隷となって苦しめられる。」という神様の計画をも継承することとなったのです。
この神様のご計画が、ヤコブの11番目の子どものヨセフによって具体的に進められることとなりました。このように神様の計画は、静かに進んでいきます。神様の計画は、ヤコブにとっては予想外、ヨセフにとっても思いもよらない展開で進んでいきます。しかし彼らは、確かに神様の御手に握られているのです。神様の計画は、進んでいました。
私たちが知らなければならないことは、神様の私たちへの計画は、私たちの気づかない部分でも静かに進んでいるという事実です。だから私たちは、主の御心を祈り求め続ける必要があります。
Ⅱ;神様は共におられる
神様は、私たちに計画を持っておられます。そして神様は、常に私たちと共にいてくださいます。
私たちが、神様が共にいてくださると分からない時にも、神様は常に共にいてくださいます。ヨセフは、神様の導きなど少しも感じることが出来なかったでしょう。ヨセフは、他の兄妹たちの誰よりもヤコブから愛され、大切にされ、過保護すぎるほどのヤコブの寵愛を受けました。ヤコブが、ヨセフにあや織の長服を作って着せたことにもこの偏愛ぶりは現れています。ヤコブは、ヨセフに特別にあしらった服を着せていたのです。ヨセフは、自分が父に愛されていることで、自分だけが特別扱いされていると思い高慢になっていた部分があったでしょう。ヨセフは、兄弟たちの悪い噂を父ヤコブに告げ口するのです。それだけではなく、ヨセフは自分が見た夢を得意満面に語りだします。その内容は、ヨセフが特別な地位に就き、兄弟たち家族が自分にひれ伏し礼拝するというようなものです。このような夢を2回も見たということは、夢を通して神様が何かを伝えているというメッセージかもしれません。けれどもヨセフは、神様からの語りかけとは考えませんでした。ヤコブは、ヨセフの夢を心にとどめていまたしたが、夢の意味を神様に問うことはしていないし、ヨセフに祈るようにとも進めることはありませんでした。
こうしてヨセフは、兄弟たちから憎まれ、妬まれ、兄弟の関係はこじれてしまいました。そうこうしているうちに、ヨセフは、兄弟たちに捕らえられ、ミディアン人たちに奴隷として売り飛ばされてしまいました。イシュマエル人とかミディアン人とか言われていますが、同じ意味として総称的に二つの名前が使われているようです。ヨセフを売り飛ばす計画を思いついたユダは、ヨセフを殺すことは良くないとしながらも、ヨセフを売れば少しでもお金が手に入ると考えたのでしょう(25-28)。こうしてヨセフは、奴隷として売られ、結果としてエジプトに連れていかれることになりました。
兄弟を奴隷として売り飛ばすようなことを考え出したのは、ヤコブ(イスラエル)の息子たちです。繰り返しになりますが神様は、アブラハムから多くの国民が出ると約束し、祝福を与えておられました。それがその子イサクに受け継がれ、ヤコブに受け継がれています。そしてヤコブの息子たちがイスラエル部族となって行くのです。しかし彼らは、神様の祝福の約束を心に留めていないどころか、神様の祝福からかけ離れた生き方をしていました。
ヨセフは、突然父ヤコブが特別に作ってくれた長服をはぎ取られ、自由を奪われ奴隷として売られることとなりました。そして遠くエジプトまで連れていかれ、そこでまた売られることとなりました。ヨセフにとっては、「青天霹靂(せいてんのへきれき)」、本当に思いもよらない、あってはならないことの連続となりました。神様の約束はどこに行ってしまったのでしょうか。これでは、アブラハムの神、イサクの神が祝福を与えると言っても、それが途絶えてしまうような最悪の結果となるのではないでしょうか。
ヨセフは、兄たちに捕らえられた時、水の枯れた井戸に落とされました。おそらくヨセフは、兄たちに助けを求めたでしょう。けれどもヨセフの声は、兄たちに届くことはありませんでした。売り飛ばされる時もヨセフの泣き叫ぶ声は、ずっと響き渡っていたのではないでしょうか。その泣き叫ぶヨセフの声は、兄たち届くことはなく、当然兄たちが考えを変えることもなく、ヨセフは誰からも助けを受けることが出来ない状況となりました。どこに希望があるのでしょうか。神様の守りはどこに行ってしまったのでしょうか。神様は、何をしておられたのでしょうか。
創世記39章にその答えがあります。「主がヨセフとともにおられたので、彼は成功する者となり、そのエジプトの主人の家に住んだ。彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを彼に成功させてくださるのを見た。(2-3)」神様は、ヨセフと共におられました。ヨセフが苦しむ時、神様は側にいてくださいました。ヨセフが嘆き悲しむ時、神様はヨセフの声に耳を傾けてくださったのです。神様は、ヨセフを辛い道に導かれました。それはヨセフが嫌いだからではありません。神様は、ヨセフを訓練し、ヤコブ一族を導くのです。しかしこの神様の計画の中で生きているヨセフや兄弟たちの欠点や弱さ、憎しみ妬みという感情が入り込むので複雑になっていくのではないでしょうか。
私たちも生きていると様々なことがあります。青天霹靂と思うこともないわけではありません。「どうして」と感じることがあります。私たちは、「神様の導きはどこにあるのだろうか。」と分からなくなることがあるものです。けどもその時に忘れてはならいことがあります。「主はヨセフとともにおられた」と言う事実です。神様は、私たちが苦しむ時、悲しむ時、先の分からない不安と恐れを感じる時、その時私たちと共にいてくださるのです。だから私たちは、人生を諦めることなく、私の知らない神様の計画があるのだと知ることが出来るのです。
神様は、私たち一人ひとりに計画をもっておられます。その計画は、静かに進んでいくことが多いのです。そしてそのような中で神様は、私たちをともにいてくださるのです。今週の聖句を読みましょう。
「人の心には多くの思いがある。しかし、主の計画こそが実現する。」箴言19章21節
<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。神様、ヨセフは思いもよらない出来事を経験しました。しかし神様は、ヨセフと共におられました。私たちもヨセフと同じように思いもよらないこと、青天霹靂と思える出来事に直面することがあります。この先自分の人生がどう進むのか分からないことがあります。しかし神様は、私たちに計画をもっておられ私たちを導いてくださることを感謝いたします。私たちは、多くの思いをもって生きています。けれども神様の計画こそが実現することを信じます。神様、どうか私たちの歩みを導いてください。私たちが神様の計画の中を信仰をもって歩み続けることが出来るように支えてください。
この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」