2024年9月8日(日)礼拝説教(西荻チャペル合同) 出エジプト記16章1-12節 「主の栄光を見る」 説教者:赤松勇二師 CS説教:赤松由里子師

<子どもたちへ>
 今日は東京の西荻チャペルの皆さんも一緒の礼拝です。このような機会をとても嬉しく思います。また礼拝の後には、西荻の方の洗礼式があります。教会にとって、こんなに嬉しいことはありません。ぜひみんなでお祝いしたいですね。
 さて、今日も、モーセと一緒にエジプトを脱出したイスラエルの人たちのお話を続けます。少しだけ先週までを振り返りましょう。エジプトの王様がイスラエルの人たちを連れ戻そうとして、おいかけて来たのでしたね。でもモーセが海の上に手を差し伸べてお祈りすると、海が2つに分かれて、イスラエルの人たちは、乾いたところを渡って逃げることが出来ました。けれどもエジプトの王様たちは、水が元に戻って溺れてしまったのでした。イスラエルの人たちはピンチを乗り越えることが出来て、「神様ありがとうございます!」と賛美したのでした。

 さてその後です。人々は、荒野と言って砂や石ばかりがゴロゴロしているところを旅していました。おやおや、困った顔をして何か言っています。「ああ、お腹がすいた!」「エジプトから持ってきた食料も終わりそうだよ。あの頃はお肉やパンをお腹いっぱい食べられて、今よりずっと良かったのに。」少し前にはあんなに神様を賛美していたのに、神様がしてくれたことを忘れて文句を言いました。

 みんなはモーセとアロンに「飢え死にしたら、どうしてくれるんですか!」とけんか腰です。モーセは困ってお祈りしました。「神様、いったいどうしたらいいのでしょう?」すると神さまは言われました。「わたしは夕方には肉を、朝にはパンを与えよう。彼らがわたしのことばに従うか、見てみよう。」
 夕方になりました。パタパタ、パタパタパタ!すごい音がします。「あっ!鳥だ。鳥がたくさん飛んで来たぞ!」そこにはうずらという鳥の大群がやってきました。あまり高く飛べない鳥なので、捕まえやすかったみたいです。みんなはうずらのお肉をたくさん食べることが出来ました。
 朝です。地面がしっとりと朝露で濡れています。よく見ると、白っぽい霜のようなものがありました。「これは何だろう?」と口々に言って拾い集めました。するとモーセは言いました。「これは神様が食物として下さったパンです。集めて食べなさい。」

 イスラエルの言葉で「これは何だろう?」ということばは「マナ」というそうです。それでこの食べ物はマナ、と呼ばれました。煮たり焼いたりして食べました。味は、ほんのり甘いパンのようだったそうです。
 マナには神様からのルールがありました。毎日必要な分だけ集めること。ルールを守らず多く集めて貯めておくと、それは腐ってしまいました。
 またマナは6日目に2日分集めること。週の最後の日、7日目にはふらないからです。この場合は取っておいてもマナは腐りませんでした。6日目が忙しくて7日目に探してみても、マナはふりませんでした。神様のおことばの通りです。神様はイスラエルの人たちが、お言葉にしたがうことを教えておられたのです。
 このマナは、何年も、いいえ何十年も続いて、イスラエルの人たちの食べ物として続いたそうです。

 私たちが元気に過ごすために必要なものは、ご飯や水、住む家や着るもの、そして家族や友達などですね。こうした必要を、神様は知っておられます。ですから必要が満たされるか不安な時、文句を言うのではなく、神様お与え下さい、とまずお祈りしていきましょう。
 また聖書は、私たちには「神様のことば」という心のご飯が必要だよ、と教えています。物が足りていたとしても、人から見て恵まれていたとしても、心を支えてくれるものがないと、私たちは元気に生きていけません。私たちへの愛のこもった神様のことばを毎日読んで、神様に強めて頂きましょう。

<祈り>
 天の父なる神様。いつも私たちを守って下さってありがとうございます。マナを毎日与えてイスラエル人に下さったあなたが、私たちの必要も満たして下さることを信じます。食べるもの、着るもの、必要のすべてと、何よりも心を強めてくれる神様のみことばを、毎日私たちにお与え下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。」  マタイの福音書6章11節
「朝には主の栄光を見る。」   出エジプト記16章7節

<適用>
 今日は、私が主管牧師兼牧をさせていただいている西荻チャペルの皆さんが小川教会に来てくださいました。またZOOMでも出席してくださっています。こうして一緒に礼拝できることを心から主に感謝致します。合同礼拝としているのは、今日の午後、西荻チャペルの洗礼式を行うためです。洗礼式が行えることは本当に嬉しいことです。洗礼を受ける兄弟の祝福をお祈りください。
 先週、福音伝道教団では「今、必要な箴言『神の知恵』を学ぶ」と言うテーマで夏期聖書講座が行われました。講師は、小山田格先生でした。小山田先生は、箴言を中心に神様が私たちに教えておられること、私たちが心に留めるべき神様の御心を分かりやすく語ってくださいました。私は、小山田先生のメッセージや講義を何回か聞いたことがあります。小山田先生は、本当に嬉しそうに聖書の御言葉のお話をされるのです。私は、小山田先生のお話を聞くたびに、「なんて嬉しそうなのだろうか。小山田先生は本当に楽しいのだろうなぁ」と思うのです。あれほど、嬉しそうに、楽しそうに、聖書の御言葉の話をする人は、あまりいません。
 夏期聖書講座の帰り道、「果たして自分はどうなのだろうか」と考えさせられました。私は、牧師として礼拝でメッセージを語ります。その時、神様への感謝をどれほど表現出来ているだろうか。私は、聞く人たちが、「説教の準備大変だっただろうなぁ」とか「ちょっとお疲れが・・・」と思うことはないだろうか、と、ふと心配になりました。でも疲れていても大丈夫です。神様が力を与えてくださいます。私は、毎週喜びをもってメッセージを取り次がせていただいています。今日も神様に期待をして御言葉に耳を傾けましょう。

Ⅰ;見ていないイスラエルの民

 私たちは、主の栄光を見ながら歩むことが出来ます。皆さんは、主の栄光を見ているでしょうか。主の栄光を忘れてはいないでしょうか。イスラエルの民は、主の栄光を信仰をもって見ていない状態でした。出エジプト記16章1、2節には、何と書いてあるでしょうか。「イスラエルの全会衆はエリムから旅立ち、エジプトの地を出て、第二の月の十五日に、エリムとシナイとの間にあるシンの荒野に入った。そのとき、イスラエルの全会衆は、この荒野でモーセとアロンに向かって不平を言った。」

 何ということでしょうか。イスラエルの民はエジプトから脱出して一か月しか経っていないのに、不平不満を抱き、その思いを爆発させるのです。彼らの不満は、食べ物を十分に得ることが出来ないという空腹から来る不満でした。イスラエルの民は、十分な旅の準備も出来ず、持ち物も最小限に脱出するしかありませんでした。いつ約束の地カナンに到着出来るのか全く分からない状態でした。そのうえ宿営する場所は荒野ですから、水や食料の確保は困難を極めました。私たちは、彼らの置かれた状況は厳しいものであったことを理解できるでしょう。でも空腹でイライラしていたからと言っても、彼らの言い分は行き過ぎています。子どもたちが空腹から「お腹すいた、今日のご飯はなに?」と騒ぎ立てるレベルをはるかに超えているのです。彼らは、全会衆こぞって騒ぐのです。しかも「エジプトは良かった」と訳の分からないことを言い出す始末です。彼らは言うのです。「エジプトで肉なべのそばに座り・・・(3)」と。エジプトで奴隷であったイスラエルの民は、お肉をお腹いっぱい食べることなど出来なかったでしょう。民数記11章5節には、「エジプトで、ただで魚を食べていたとこを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、玉ねぎ、にんにくも。」とあります。でも皆さん思い出してください。イスラエルの民は、エジプトでは奴隷であり、自由はなく、重労働に苦しめられていたのです。だからこそイスラエルの民は、主なる神様の救いを叫び求めたのではなかったでしょうか。神様は、イスラエルの叫びを聞き、彼らの苦境をご覧になり、御手を差し伸べモーセを遣わしたのではなかったでしょうか。

 神様が、エジプトに災いをもたらされたのは誰のためだったでしょうか。神様が雲の柱、火の柱としてご自身を現し導かれるのは誰のためでしょうか。すべては、イスラエルの民のためです。神様が、紅海の水を分けイスラエルの民をエジプト軍から救ったのではないでしょうか。イスラエルの民は、その一つ一つの神様の奇跡のみわざを見ていたはずです。見ただけではなく、彼らは、その只中にいて神様の力強い御手を経験したのです。
 けれどもイスラエルの民は、主なる神様を見てはいませんでした。主なる神様の栄光が現されていることを信仰をもって受け取ることが出来なかったのです。だから彼らは、事あるごとに神様に不平をぶちまけるのです。モーセに対する不平は、実は神様への不平不満だったのです。彼らは、数々の奇跡を通して救い出してくださった神様の恵みを忘れました。神様の力あるみわざを経験しながらもイスラエルの民の感謝は長続きせず、神様への不満を口にするのです。

 皆さん、私たちは主なる神様の栄光をしっかりと見ているでしょうか。「栄光を見る」と言うのは、神様のわざを見るということですが、それだけではなく、私たちと共におられる主なる神様を信じ続けるということでもあります。神様は、皆さんをどのように導いてこられたでしょうか。神様は、あなたのためにどれほど素晴らしいことをしてくださったでしょうか。私たちは、その神様の恵みを忘れてはいないでしょうか。見なかったことにしてはいないでしょうか。
 私たちは、信仰をもって主の栄光を見続けて歩みましょう。

Ⅱ;主は生きておられます

 私たちは、主の栄光を見続けて歩みましょう。主は今も生きておられます。神様は、不平不満をぶちまけ、騒ぎ立てるイスラエルの民に対してどのように対応されたでしょうか。民数記11章では、主の怒りが燃え上がったと書かれていますが、神様は、食べ物を与えると約束してくださいました。この時から、神様は毎朝「マナ」を与えてくださいました。うずらの肉が与えられたことも書かれていますが、出エジプト記16章の中心的な関心は、「マナ」にあります。イスラエルの民が宿営するところでは、毎朝一面に露がおり、それが薄焼きパンのようになり人々はそれを集めて食べることが出来ました。「これは一体何だろう?」と言うことから「マナ」と名付けられました。

 この時神様は、マナを集めるためのルールを設けました。それは、「家族で食べる分だけ集めること」、「次の日まで取っておいてはならない(毎日必要な分は与えられる)こと」、「6日目(金曜日)には、二日分を集めること」でした。それほど難しいことではありませんね。イスラエルの民は、この簡単なルールも最初守ることが出来ませんでした。6日目に二日分を集めるのは、安息日を守るためです。神様は、人々が休み、主なる神を礼拝する日として安息日を設けてくださいました。安息日に関する戒めは、もう少し後で与えられることとなりますが、神様はモーセを通して、あらかじめ、安息日を主を礼拝する日として聖別することを教えておられたのです。

 神様は、マナが降りることを「朝には主の栄光を見る」と言っておられました。神様は、イスラエルの民に必要な日々の食物を用意してくださいました。これは神様が、私たちの日々の糧に関して配慮してくださっているということです。私たちは毎週の礼拝で「主の祈り」を祈っています。その祈りの中で「日ごとの糧を、今日もお与えください」と祈っています。実は、私たちはイスラエルの民がそうであったように、毎日主の栄光を見ていることに気づくでしょうか。私たちは、偶然に日々の食べ物を得ているのではありません。

 今年は、お米がスーパーからなくなってしまうということがありました。農協の直売所でもお米が姿を消しました。そしてお米の値段が上がってしまいました。夏の猛暑や台風、大雨の影響で、農作物がだめになったり、良く育たないということもあります。日々の必要が与えられるというのは、当然のことではないのです。
 私が子どもの頃(今から40年以上前)、我が家の台所には、切り取られたパンの耳が大量に入った大きな袋が良く置かれていました。私たち子どもは、いつでもその袋からパンの耳を食べていました。私が初めて食べたフレンチトーストは、パンの耳だったように記憶しています。これは、近くのパン屋さんがサンドイッチを作るために切り取り廃棄するパンの耳を特別に安く売ってもらったのだそうです。牧師をしていた両親は、与えられる牧師謝礼で生活の必要をやりくりしながら、5人の子どもたちが十分食べることが出来るようにと苦労したのだと思います。子どもの私は、両親の苦労など知りませんから、堅いパンの耳を喜んで食べていました。皆さん、主なる神様が、私たちの生活を支えておられることを覚えましょう。日々の必要が与えられているというのは、当たり前のことではなく、主なる神様のみわざであり、主の栄光の現われなのです。

 イスラエルの民は、毎朝マナを通して現されている主の栄光を見、感謝をしたのではないでしょうか。そうであったと思いたいです。民数記11章23節で、マナを与えると言われた神様はモーセに次のようにも言っておられます。「この主の手が短いというのか。わたしのことばが実現するかどうかは、今に分かる。」神様の御手は決して短くはありません。イスラエルの民を導き必要を満たしてくださった神様は、今も生きていて私たちの必要を満たしてくださいます。イスラエルの民に対して真実を語り、みわざを行われた主なる神様は、今も生きておられ、私たちに真実を語り、ご自身のみわざを行ってくださいます。
 私たちは、食事の時に感謝のお祈りをすると思いますが、「主の栄光を今日も見せてくださってありがとうございます」という告白をもって祈る者でありたいと願います。

Ⅲ;イエス様による救い

 私たちは、主の栄光を見る信仰の目を持ちましょう。そこには必ずイエス様による救いがあります。
 イエス様による救いとは飛躍し過ぎていませんか、と思うかもしれません。イエス様は、「まことに、まことに、あなたがたに言います。モーセがあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。わたしの父が、あなたがたに天からのまことのパンをあたえてくださるのです。神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです(ヨハネの福音書6章32-33節)。」と言われました。

 天から与えられたマナは、当時のイスラエルの民を養いました。しかも荒野の40年間と言う長きに渡ってです。このマナには、霊的な意味がありました。それは天から与えられるいのちのパンです。イエス様は続くヨハネ6章35節で「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」と言われました。そしてイエス様は、いのちのパンとして命を捨て、十字架にかかり死なれ三日目によみがえりました。こうしてイエス様は、救いを成し遂げてくださったのです。イエス様を信じる人は、心が決して飢えず、渇かず、永遠のいのちに満ち溢れるのです。この救いの恵みを信じて受け入れる時、主の栄光が私たちの心の中に注がれるのです。

 イエス様は、「神のわざを行うためには、何をすべきでしょうか」との質問を受けた時、「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。」(ヨハネの福音書6章28-29節)と言われました。とすれば、神のわざは今も行われています。一人の罪人が罪を悔い改めてイエス様を救い主と信じること、それこそ神の奇跡のみわざです。神様を知らなかった人が、神様を否定し罪の中を歩んでいた人が、聖霊様の光に照らされ、罪を認めイエス様を救い主と信じるということ、これほど素晴らしいことがあるでしょうか。永遠の滅びに定められていた私たちが、イエス様の十字架の死と復活を信じる信仰によって罪を赦され、永遠のいのちが与えられ、天の御国への希望を得るのです。私たちは、それぞれの人生の道筋の中で、神様の奇跡の働きによって信仰に導かれた一人ひとりです。私たちは、神様の不思議な御手のお働かきよって今まで支えられてきました。これからも神様の御手は、変わることなく伸ばされ続けます。そして今日私たちは、一人の兄弟が信仰を告白し洗礼を受けるという恵みを目撃します。これこそ、主なる神様だけが出来る大いなるみわざです。主の御名を賛美します。

 私たちは、主の栄光を見ることが出来ます。私たちは、神様がしてくださった一つ一つのことを過去のことと忘れさるのではなく、今も働く主の恵みを覚えて神様を見上げましょう。私たちは、今も生きて働く主の栄光を見ることが出来ます。神様は、日々の必要を十分に与えてくださいます。私たちは、信仰をもって主の栄光を見続けましょう。その時、私たちの心には、イエス様による救いの恵みが溢れてきます。

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。今日も私たちは、主の栄光を見させていただけることを心から感謝いたします。神様、一人ひとりの必要を豊かに満たし導いてください。私たちは、主の救いを、導きを忘れず感謝と喜びをもって歩んで行きます。毎日、主の栄光を見て、主を賛美し、礼拝して歩む者とさせてください。
 今日は、午後に洗礼式を行います。洗礼を受ける兄弟を祝福し、これからの信仰生活をお守りください。
 この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」