2024年11月10日(日)礼拝説教 ルカの福音書9章28-36節 「栄光に輝くキリスト」 説教者:赤松勇二師

<子どもたちへ>
 皆は、「キッチン戦隊クックルン」という番組を見たことがありますか?三人の主人公(ヨモギ、クリン、マメコ)が怪人と戦いながらいろいろなお料理に挑戦する番組です。三人が怪人と戦う時には、「これから戦うぞ!」という表情に変わります。戦う場面がアニメになったりと変化がありますね。
 今日は、イエス様が十字架を前にして、様子が変わった時のことを見ることにしましょう。

 「ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、一緒に山に登りましょう。」遠足でしょうか?いいえ違います。イエス様は、3人の弟子たちを連れて祈るために山に登って行かれました。「はい、イエス様。お供します。」と返事をして、ペテロたちはイエス様と一緒に山に登っていきました。山に登ってイエス様は、さっそくお祈りの時間をもちました。弟子たちは、疲れてしまってヘトヘトです。すでに日が暮れていたのでしょう。弟子たちは、眠くなってきました。

 するとなんと、お祈りしているイエス様のお姿が変わっていきました。どんな風に変わったのかと言うと、イエス様の顔が太陽のように輝き、着ている洋服は光のように白く輝き始めたのです。眠くてウトウトしていた弟子たちは、あまりのまぶしさに目が覚めました。見ていると、そこにいたのはイエス様だけではありませんでした。モーセとエリヤが姿を現して、イエス様と何かを話しているのです。3人が話していたのは、これからイエス様がエルサレムの町で受ける十字架刑と復活のことだったのです。

 ペテロたちは、目の前の光景にビックリです。ペテロとヨハネとヤコブの会話を想像してみましょう。「おいヨハネ、夢じゃないよね。ちょっとほっぺたをつねってくれないか」とペテロ、「夢じゃないよ、ペテロ、イエス様のほかに二人いるよ。あれはモーセとエリヤじゃないかな。」とヨハネ。「これは素晴らしい光景じゃないか。三人で『エルサレムで』とか話しているよ」とヤコブ。三人が驚いて見つめている、モーセとエリヤがイエス様から離れていこうとしています。ペテロは、これはまずい何か声をかけて引き止めないと、と思ったのでしょう、とっさに叫びました。「イエス様、これは素晴らしいことです。モーセとエリヤがずっと地上にいられるように、イエス様と、モーセとエリヤのために幕屋を三つ建てましょう。」ペテロは、驚きのあまり何を言って良いのか分からなかったのです。

 すると、イエス様とモーセとエリヤは、雲に包まれて見えなくなりました。ペテロたちは、神様の臨在を見て急に怖くなり、顔を伏せてしまいました。すると雲の中から神様の声がしました。それが今週の聖句です。一緒に読みましょう。「これはわたしの選んだ子、彼の言うことを聞け。(ルカの福音書9章35節)」この神様の声が聞こえたと思ったら、そこにはイエス様しかいませんでした。とても不思議な出来事です。これは、どういうことなのでしょうか。

 イエス様は、僕たちの罪を背負い、神様の罰を受けるために十字架にかからなければなりませんでした。十字架刑は、とても恐ろしい処刑方法です。だからイエス様は、父なる神様に祈ったのです。そして神様は、イエス様の祈りに答えてモーセとエリヤを遣わしてくださり、イエス様を励ましていたのです。イエス様は、僕たちの罪が赦され、救いを受けられるようにと十字架で死なれ、三日目によみがえってくださいました。
 そして神様の声は、イエス様が神様のひとり子であり、救い主であることの証明となりました。そして神様は、僕たちがイエス様の声に聴き従うようにと語っておられます。僕たちは、イエス様の十字架の死と復活による救いを信じましょう。そして僕たちは、イエス様の言葉、聖書の言葉をしっかりと心に留めて従いましょう。

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。イエス様は、僕たちの罪のために十字架に進まれました。イエス様の救いを信じます。そしてイエス様の言葉に従って歩みます。どうぞ導いてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

「これはわたしの選んだ子、彼の言うことを聞け。」ルカの福音書9章35節

<適用>
 先週の洗礼式のためにお祈りとご協力をありがとうございました。2日の土曜日には、土砂降りの雨となり3日の天候を心配しましたが、神様は暖かい一日を用意してくださいました。受洗した兄弟の信仰が守られ、成長することが出来るように祈りましょう。
 私は、高校1年の時に洗礼を受けることが出来ました。洗礼を受けてから私の中で変化したことがありました。それは、兄弟ゲンカをしなくなったことです。それまでは毎日のように兄弟特に妹や弟といがみ合っていたのですが、イエス様をはっきりと信じて従うと決めた時から、喧嘩をする事が無意味に思えるようになったのです。信仰の世界は、私たちの心だけではなく生き方に変化をもたらします。皆さんは、どのような変化を経験してきたでしょうか。
 イエス様は、ある山の上でお姿が変わるという事がありました。「変貌山」と言われる出来事です。ご一緒に見て行きましょう。

Ⅰ;祈りによって

 イエス様は、山の上で祈っている時にお姿が変わりました。イエス様が登った山が、どの山なのかは明確にはわかりません。しかし同じ事柄を書き留めているマタイの福音書とマルコの福音書を合わせて読むことによって、イエス様が山に登った時期と場所が何となくわかって来るのです。
 先週の礼拝では、マタイの福音書16章から、「あなたは生ける神の子キリストです(マタイ16章16節)。」というペテロの信仰告白を学びました。イエス様は、この時ご自分が十字架にかけられることと、三日目によみがえるという予告をされました。これらのことがあってから約一週間後にイエス様は、ペテロたちを連れて山に登って行かれました。ペテロが、「あなたは、生ける神の子キリストです。」と信仰を表明したのは、ピリポ・カイザリアでのことでした。ですからイエス様たちがしばらくその町に滞在したと考えて、この時登った山は、ピリポ・カイザイアの北にある「ヘルモン山」だと言う説があります。

 イエス様は、普段から祈る時間を大切にしておられましたが、12弟子を選ぶ時など、折に触れて特別な祈りの時間を持っておられました(ルカ6:12)。そしてこの時イエス様は、十字架を直前にして祈り備える必要を感じられたのではないでしょうか。と言うのは、イエス様は弟子たちにご自分が人々からの迫害を受け、十字架につけられ死んで葬られ、三日目によみがえるという予告をしておられたからです。それほどにユダヤ教の指導者たちの反感が、強まって来ていたという事です。そこでイエス様は、エルサレムに向かうために神様の御前に祈り、神様からの力を受ける必要があったのではないでしょうか。イエス様は、神の御子なのだから祈らなくても神の力を発揮することが出来るのではないかと思うかもしれません。確かにイエス様は、神の御子であり、私たち人間の罪が赦されると言う救の道を開くためにこの地上に来られました。しかし同時にイエス様は、人間なのです。イエス様は、当然人間としての弱さを持ち、人間としての痛み悲しみを知っておられました。だから十字架という恐ろしい刑罰を前に祈らずにはいられないのです。イエス様は、主に祈りつつ日々歩まれ、祈りによって神様のみわざを行う力を得、祈りによって神様からの励ましを受けていたのです。

 神様は、イエス様の祈りに答えるように、イエス様によってご自身の栄光を表されました。イエス様の顔が太陽のように輝き、衣が白く輝いたと言うのは、イエス様が本来持っておられた天の栄光に包まれ、満たされたという事です。そしてモーセとエリヤが遣わされたという事は、神様のイエス様に対する愛と励ましと慰めとなったことでしょう。イエス様は、祈りによって神様と交わり、祈りによって神様の祝福を受けていたのです。

 皆さん、神の子であるイエス様が、祈りによって神様の栄光を受けるのだとしたら、私たちは「祈り」という事を重要なこととして受け止める必要があるのではないでしょうか。私たちも神様に祈る事によって、神様の栄光を受け、神様の祝福を受けることが出来るのです。「祈りは聞かれる」と言われます。しかし、それは主に祈っていないと聞かれているのかどうか分からないのです。私たちは、今年度の御言葉としているピリピ4章6-7節を毎週読んでいます。私たちは、祈りによって私たちの願い事を神様に知っていただくことが出来ます。そうするとどんな約束があるのでしょうか。神様は、私たちの祈りに答えて「すべての理解を超えた神の平安」が私たちの心と思いを守ってくれると言われます。実は、この約束を実感するのも祈りの時間をしっかりと確保して主の御前に心を注ぎ出して祈っていないと知ることの出来ない恵みの世界なのです。
 私たちは、主なる神様の御前に心からの祈りを捧げ、祈りによって知ることの出来る神様の栄光を見させていただきましょう。

Ⅱ;十字架と復活

 イエス様は、山の上で主の栄光に輝くお姿に変わりました。それは祈りによってなされたことでありました。神様は、イエス様の祈りに答えて、モーセとエリヤを遣わしてくださいました。モーセもエリヤも旧約を代表する人物です。そしてイエス様は、モーセとエリヤとこれから進むべき十字架と復活について話していたのです。まさに主の栄光は、イエス様のみわざを通して現されるのです。
 モーセは、エジプトで奴隷とされ苦しめられていたイスラエルの民を導き出し、神様から十戒を受け、荒野の40年間を導いた偉大な指導者でした。エリヤは、旧約を代表する偉大な預言者です。ユダヤ人であるペテロたちにしてみれば、モーセもエリヤもヒーローのような存在だったことでしょう。二人を見たペテロが、驚きパニックになったのは、旧約の偉大な人物がいるというあり得ない光景だったからです。

 イエス様とモーセとエリヤは、何を話していたのでしょうか。ルカは、「エルサレムで遂げようとしておられる最後について、話していた」と書いています。ですからモーセとエリヤは、救いの道を成就するためにイエス様が十字架に進むことが出来るようにと励まし力づけたのです。
 ルカ9章31節にある「最後について」とは、イエス様の十字架の死を表しています。しかしルカは、通常使われる「死」という言葉を使わず、ギリシャ語では「エクソダス」を使っています。エクソダスは、直接的には「出て行く、出発する、脱出」と言う意味があります。それが「死」を表す表現としても使われるようになりました。ルカが、あえてイエス様のエルサレムでの十字架の死を表すのに「エクソダス(脱出)」を使ったのには、重要な意味があります。そしてそれは、モーセが遣わされたことにもつながっているのだと思うのです。この「エクソダス」は、脱出を意味し、旧約の出エジプトを意味します。モーセは、イスラエルの民をエジプトの奴隷から解放し、イスラエルの民をエジプトから脱出させました。

 イエス様は、私たちを罪の奴隷から解放し、救いを与えるためにこの地上にお生まれになりました。だからルカは、エルサレムでのイエス様の最後(十字架の死と復活)について、「エクソダス」を使ったのです。イエス様は、罪の暗闇に捕らわれている私たちを救うために十字架に進んで行かれました。イエス様は、私たちが罪赦され、罪から解放され(自由にされ)、神の子として生きるために十字架にかかってくださいました。イエス様の十字架の死は、私たちの罪の身代わりであり、イエス様は信じる私たちが永遠のいのち、天の御国へと続くいのちを得るためによみがえってくださったのです。
 栄光に輝くキリストは、私たちを罪の縄目、罪の奴隷から解放し、罪の赦しという栄光に迎え入れてくださるお方です。今、イエス様を罪からの救い主と信じる信仰を新たにして主を見上げましょう。

Ⅲ;聞き従う

 私たちは、栄光に輝くキリスト、救い主の言葉に聞き従いましょう。ペテロが興奮して三つの幕屋を建てましょうと提案していあると、イエス様とモーセ、エリヤは雲に包まれました。雲は、神様の臨在を表します。栄光に輝くイエス様をさらに神様の臨在が包み込んだということになります。ペテロたちは恐ろしくなりひれ伏していきます。すると雲の中から神様の声が聞こえました。「これはわたしの選んだ子、彼の言うことを聞け」という言葉です。マタイは、「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け(マタイ17:5)」と記しています。マルコは「これはわたしの愛する子。彼の言うことを聞け(マルコ9:7)」と書いています。そして同じような言葉が別の時にも天からありました。それは、イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けた時の事です。バプテスマのヨハネから洗礼を受けたイエス様が祈っとられると「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」という神様の声が響き渡りました。またこの言葉は、詩篇2篇7節にある「あなたはわたしの子。わたしが今日、あなたを生んだ。」からの引用であり、詩篇の言葉の成就ともなっています。

 ペテロたちは、天からの声を聞き、神様の宣言を確かに聞きました。神様の言葉は、イエス様が、約束の救い主であり、神である方が人となって地上に来てくださったことの確かな証明となったのです。イエス様は、ご自分の十字架と復活が成就するまでは、山での出来事を話してはいけないと言っておられました。ペテロは、イエス様の言われて通りに話をしませんでした。しかしペテロは、イエス様の十字架と復活の後、山の上での栄光の出来事を踏まえて、確かにイエス様が救い主であることを力強く証しするのです。Ⅱペテロ1章16-18節です。「私たちはあなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨を知らせましたが、それは、巧みな作り話によったのではありません。私たちは、キリストの威光の目撃者として伝えたのです。この方が父なる神から誉れと栄光を受けられたとき、厳かな栄光の中から、このような御声がありました。『これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。』私たちは聖なる山で主とともにいたので、天からかかったこの御声を自分で聞きました。」

 ペテロたちは、主の栄光を目撃し天からの声を聞いた当事者として証ししています。そして「彼の言うことを聞け」という言葉も実践するのです。ペテロは、イエス様の弟子として主の御声に聞き従い福音宣教の働きを進めていきました。
 皆さん、イエス様は、私たちの救い主です。イエス様は、私たちを罪の縄目、罪から来る永遠の裁きから救い出してくださるお方です。ですから私たちは、イエス様を信じると同時にイエス様の御声に聞き従うことが必要です。イエス様の御声に聞き従い歩むとき、私たちの生き方が変えられていきます。あなたの生き方、考え方は、御言葉によって変えられているでしょうか。私たちは、イエス様によって変えられ続け、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられて歩むことが出来ます。

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。イエス様は、祈りつつ神様との交わりを持ち、神様からの励ましと力を受けて進まれました。私たちも祈りによって主の栄光を見させていただきたいと願います。神様、私たちの祈りを導いてください。
 イエス様は、私たちを罪の奴隷から解放するために十字架の死と復活に向かっていかれました。イエス様の救いを心から信じます。そして私たちは、イエス様の御声に聞き従います。私たちの信仰が、神様によってさらに成長し、主の栄光を現すことが出来るように導いてください。
 日に日に寒くなっていきます。神様、一人ひとりの健康と生活、仕事をお守りください。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」