2024年12月15日(日)アドベント第3週 ルカの福音書2章1-7節 「世に来られた救い主」 説教者:赤松勇二師

<子どもたちへ>
 皆は、自分が生まれた日のことについて親に聞いたことがありますか?僕は、今から50数年前に生まれたのだけれど、その日の事を調べてみました。今は、パソコンとかで自分の誕生の天気を調べることが出来るみたいです。便利になりましたね。僕が生まれた日、僕の家族が住んでいた地域の天気は、「曇り」だったようです。
 皆が生まれた時、大きな喜びが沸き起こり、家族中が喜んだことでしょう。ではイエス様が、おまれになった時はどのような状況だったのでしょうか。

 先週は、マリアが、御使いの知らせを受けた時のことを聞きましたね。マリアは、聖霊によって救い主を身ごもることになりました。マリアは、「神様には不可能なことはなにもない」と言うことを信じたのですね。そして心からの賛美を神様におささげました。一方、マリアと結婚するはずのヨセフは、結婚する前にマリアのお腹の中に赤ちゃんがいると言うことを知って、とてもびっくりしました。そしてヨセフは、どうしたらよいだろうかと考え込み、思い悩んでしまいました。すると御使いがヨセフの夢に現れて、「マリアから生まれる子は男の子で救い主である」という知らせを聞きました。こうしてヨセフは、迷うことなく、マリアを妻として迎え、救い主の誕生の準備をしていました。

 ちょうどそんな時、当時ユダヤ人たちを支配していたローマ政府から住民登録をするようにと言う勅令(命令)が出されました。普通なら、今住んでいる場所で登録するのですが、ユダヤ人たちは自分たちの先祖の町に行って住民登録をすることとなっていました。ヨセフは、ダビデの血筋だったので、ダビデの町のベツレヘムに行って登録しなければいけませんでした。この時の登録にヨセフはマリアを連れて行ったのです。お腹の大きいマリアにとっては大変で、危険な旅となります。今のように車のような乗り物はありませんから、歩きとかロバを使って移動することとなります。道は、平らな道だけではなく、デコボコ道があったり、何もない荒野を歩くということもあったでしょうか。とにかくヨセフとマリアは、ゆっくり進んだことでしょう。

 やっとベツレヘムに着いてみると、住民登録をするために集まっているダビデの子孫がたくさんいて泊まれる宿屋がありませんでした。ヨセフとマリアが、ベツレヘムに滞在している間に、マリアは、男の子を産みました。そして布にくるんで飼い葉桶に寝かせました。そう、マリアが泊まっている場所は、動物たちがいる家畜小屋でした。そしてイエス様は、布にくるまれて動物の餌を入れる飼い葉桶に寝かせられたのです。聖書には、「宿屋には彼らのいる場所がなかった」とあります。誰もイエス様を迎えることが出来なかったのです。これが、救い主イエス様が誕生された時の様子です。

 ベツレヘムは、ユダヤの地域の中でも小さな町だと言われています。イエス様は、その小さな町の小さな家畜小屋で、誰にも知らせずにお生まれになり、飼い葉桶に寝ておられたのです。イエス様は、子なる神様です。その神様が、人間となってこの世に生まれて下さったのです。そしてイエス様は、罪のない完全に正しい人間として生きられました。それは、僕たちの罪の身代わりに、罪に対する神様の裁きを受けるためです。イエス様は、僕たちに罪の赦しを与えて、救って下さるのです。イエス様が生まれた時、誰もイエス様を迎えることが出来ませんでした。今、皆の心にはイエス様を迎え入れる準備が出来ているでしょうか。救い主イエス様を信じ、心にお迎えして、心から感謝と喜びを持ってクリスマスをお祝いしましょう。

<祈り>
 「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。救い主イエス様は、僕たちのために家畜小屋でお生まれくださいました。心から感謝いたします。僕たちは、イエス様を心にお迎えします。どうか僕たちの心をイエス様の救いの喜びで満たしてください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。」   
                              ピリピ人への手紙2章6-7節

<適用>
 私は、小学生の時にフォークギターを始めました。中学生の時にエレキベースを始めて、中2の時に友だちとバンドを組みました。その時から、エレキギターやドラムの練習を始めました。高校では音楽部の軽音楽班に入り、部活でもバンドを組みました。当然、私は部活のバンドでもエレキベースを担当しました。ある時、高2の先輩のバンドでエレキギターの助っ人が必要だということになりました。私が所属する高1のバンドではエレキギター担当がいます。その友だちが手をあげました。でもなぜか私も手をあげてしまったのです。中学からエレキを始めているし、兄に教えてもらってある程度弾けるようになっていたので大丈夫だろうと考えてしまったのです。助っ人で必要なのは、1人です。私は、エレキギターの上手な友だちに譲ればよかったのですが、ジャンケンで決めることになりました。すると何と私が勝ってしまったのです。それからが大変でした。先輩が「赤松、ソロをやれ」と言うのです。エレキギターのソロと言うのは、他の楽器の音がなくなり、エレキギターだけが一人で数分間演奏できるという一番の見せ場となります。エレキの助っ人で先輩のバンドに入っていますから、「それはやったことがありません」と今更断れません。私は、自分のバンドのベースを練習しながら、先輩のバンドのギターを泣きながら練習しました。いざ本番の文化祭の日、エレキギターのソロはぼろぼろでした。それから私は、「ソロのないエレキギターなら弾ける」と言うことにしています。私は、先輩たちのバンドの役に立ったのかと言うと、まったくダメだったことを覚えています。助っ人そしては、大失敗でした。
 しかしこの世に来られた救い主は、私たちの必要を完全に、完璧に満たすことのできるお方です。

Ⅰ;ダビデの町で

 世に来られた救い主は、ダビデの町ベツレヘムでお生まれになりました。マリアが身ごもり、ヨセフとマリアが出産に向けて準備をしているちょうどその頃、住民登録をせよという勅令が皇帝アウグストゥスから出されました。当時のユダヤの国は、ローマ帝国の属州として支配を受けていました。この勅令が出された年代を特定することは困難のようですが、当時は、徴税や徴兵のために定期的に住民登録が行われていました。住民登録は、ローマの支配の及ぶ全ての地域で行われる必要があります。と考えると、一つの勅令であっても、広大なローマ帝国の全地域で実行するためには相当な時間を必要としたと予想出来ます。しかもローマ人ならば、居住地での登録でしたが、ユダヤ人たちは先祖の町での登録となります。ですからこの住民登録は、数年かかったのではないかと思われます。こうして、ダビデ王の子孫であるヨセフは、妻のマリアを連れてベツレヘムに行くことになりました。

 ヨセフたちがベツレヘムに行った時、妊婦であるマリアは、出産の直前だったと思います。ナザレからベツレヘムまでは直線で約130kmもあります。妊娠していたマリアにとっては相当つらい旅となったことでしょう。本当なら、ヨセフだけの登録で良かったのだと思いますが、彼は、マリアを連れて行きました。それは、マリアをナザレに一人残したら、人々の非難の的になってしまう可能性があったからです。なぜならば、マリアの周囲にいた人たちは、マリアが聖霊によって身ごもったことを信じられないでいたのではないでしょうか。マリアとヨセフは、御使いの言葉によって励まされ受け入れていましたが、そのほかの人たちはそうではありません。ユダヤ人たちにとっては未婚の女性が妊娠するという事は、ユダヤの律法に違反していることだし、聖書が教える結婚の秩序を台無しにすることだからです。神様は、好きだから相手と性的な関係を持って良いとは教えていません。神様は、結婚した男女が性的関係を持つことを祝福として定めてくださいました。ですから、聖霊によって身重になったマリアを認められない多くの人々は、マリアとヨセフに冷たい視線を送っていたのではないでしょうか。ヨセフは、その冷たい視線、誹謗中傷からマリアを守る必要がありました。

 ヨセフがマリアをベツレヘムに連れて行ったもう一つの理由は、マリアの出産に立ち会うためだと思います。み使いは、思い悩むヨセフに対して夢の中で、「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです(マタイ1:20~21)」と伝えていました。ヨセフは、この御使いの言葉の実現を確認する必要があります。ですからマリアの出産の時に離れるわけにはいかないのです。という事は、マリアを連れてベツレヘムに行かなくてはならないのです。きっと彼らは、「神にとって不可能なことは何もありません。(ルカ1:37)」の御言葉に励まされながら旅を続けたのではないでしょうか。

 こうして過酷な旅をしてやっとベツレヘムに到着しますが、なんとベツレヘムでは、どこの宿屋もいっぱいで泊まるところがありませんでした。結局落ち着いた所は、家畜小屋でした。当時の家は、家畜小屋も家の一部であり、家畜小屋と台所と寝室が隣り合わせであったとも言われています。また、1階が家畜小屋で2階が住宅というケースもあったそうです。また「宿屋」と訳されている言葉は、「客間」という意味があります。これらのことを考えると、人の住居部分や客室には、ヨセフとマリア、そしてイエス様の居場所はなかったと言う事です。二人がベツレヘムに滞在している間に、家畜小屋でマリアは男の子を生みました。
 イエス様がベツレヘムでお生まれになったその出来事は、とても静かな出来事でした。その時、新生児のイエス様を迎え入れる部屋はどこにも用意されておらず、イエス様の居場所はありませんでした。今、私たちの心はどうなのでしょうか。私たちの心にイエス様の居場所はなくなっていないでしょうか。クリスマスを迎えている今、自分の心を見つめイエス様を心にお迎えして歩みましょう。

Ⅱ;神が人となった

 世に来られた救い主は、ダビデの町ベツレヘムでお生まれになりました。それは、神が人となってお生まれになったということでもありました。ダビデの町ベツレヘムで救い主がお生まれになることは、旧約聖書で預言されて来たことでした(ミカ書5:2)。しかし、ヨセフとマリアは、ナザレに住んでいましたので、二人が出産のためにベツレヘムに行く必要などありませんでした。しかし神様は、当時のローマ皇帝の勅令を用いて、二人がベツレヘムに向かうようにされたのです。ルカは、そのことを書くことによって、救い主が確かにこの世に、歴史のただ中に来てくださったことを私たちに教えているのです。

 パウロは、救い主がこの世に来られたことを次のように書いています。今週の聖句とした、ピリピ2章6-7節です。ご一緒に読みましょう。「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。」
 救い主イエス・キリストは、私たちのために神のあり方を捨ててくださいました。6節にある「神の御姿」は、「神のかたち」という意味を持っています。これは、外見上の姿、形ということではなく、神としての本質という意味です。イエス様は、「神のようであった」のではありません。またイエス様は、「神を目指していた」のでもありません。イエス様は、神の本質を持ち神であったということです。けれどもイエス様は、その神としての本質や権利を固持しようとは考えないで、それらのものを全て捨ててご自分を無にされました。イエス様は、無限の神のあり方を捨てて、人間としてこの世にお生まれになったのです。これもまたイエス様は、人間のまねをしているとか、人間のようになったのではありません。イエス様は、人間としての本質を持ち、喜び、悲しみ、怒り、楽しみなどの感情を持つ人としてお生まれになったのです。ですから、ベツレヘムにお生まれになったイエス様は、100%神でありながら、同時に100%人間であったのです。

 どうしてイエス様は、神の在り方を捨て人間の赤ちゃんとしてお生まれになったのでしょうか。それは、私たちのためです。神様から見れば私たちは罪深い者であり、神様の怒りによって永遠の裁きへと定められている一人ひとりです。しかし神様は、私たち人間を見捨てることをせずに、救い主イエス様をお与えになったのです。罪人が、罪人の身代わりになることは出来ません。罪人の代わりになれるのは、罪のない人だけです。そして罪ある人間の身代わりになれるのは、神様の前に罪のない完全に聖い人だけなのです。この条件を満たすことが出来るのは、救い主イエス様一人だけです。
 イエス様は、この世でただ一人父なる神様の前に罪のない正しい完全な人として歩まれました。イエス様は、罪のない完全な人として私たちの罪を背負い、私たちの身代わりに神の罰を受けるために人として生まれてくださったのです。そしてイエス様は、私たちが経験する悲しみ、苦しみ、痛み、病、喜びなどすべてを知っていてくださり、私たちを励まし、助け、導くのです。あなたは、世に来られた救い主の愛と恵みを心に受けているでしょうか。

 ヨーロッパのある村のクリスマスの時に起きた出来事です。その村では子どもたちが、クリスマスの降誕劇をしてお祝いしていました。降誕劇には、マリアやヨセフ、羊飼いとか博士たちなど多くの登場人物が出てきます。当然宿屋の主人も必要となります。宿屋の主人をある男の子が演じることとなりました。台詞は、泊まる場所を探しているヨセフとマリアに対して「うちはもう満員だから他をあたってくれ」と言う短いものでした。男の子は、一生懸命練習し台詞を覚えました。降誕劇の本番を迎えて、劇は順調に進んでいきます。そして宿屋の主人が登場する場面となりました。男の子は、練習した台詞を言うことができました。すると劇では、ヨセフとマリアが寂しそうにうなだれて背を向けるのです。これも練習の通りです。しかし、ヨセフとマリアの後姿を見た男の子は、突然マリアの足にしがみつき、「どこにも行かないで、僕の家に泊まってください」と泣きながら叫んだのです。劇は、台無しになりましたが、見ていた多くの人が一緒に涙を流しながら、心からのクリスマスをお祝いしたそうです。

 世に来られた救い主は、ダビデの町ベツレヘムでお生まれになり、人類の歴史のただ中に来てくださいました。世に来られた救い主は、神の在り方を捨て、人間として私たちの罪を背負うために、最も低い場所に赤ちゃんとしてお生まれくださいました。イエス様がお生まれになった時には誰もイエス様を迎えいれることはありませんでした。
 私たちは、どうでしょうか。「私の心は、様々なことで一杯」だと言ってイエス様を締め出しますか。それとも「私には、イエス様の愛と救いが必要です。イエス様私のところに来てください」と言って心にお迎えするでしょうか。

<祈り>
 「愛する天の父なる神様、アドベント第3週の日曜日をありがとうございます。救い主イエス様は、神の在り方を捨て、人としてこの地上にお生まれくださいました。私たちは、イエス様を心にお迎えし、心からの賛美をささげます。このクリスマスの愛と恵みが一人でも多くの人に届きますように。そのために私たち一人ひとりを用いてください。
 だいぶ寒くなってまいりました。一人ひとりの健康を支えてください。世界中が神様の平和で満ち溢れますようにとお願いいたします。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」