2024年10月13日(日) ヨシュア記6章1-21節 「御言葉に従う時に」 説教者:赤松勇二師

<子どもたちへ>
 小学校では、今週の土曜日に運動会がありますね。学校では、毎日のように練習して本番に備えていることでしょう。皆は、どの種目が楽しみですか?応援合戦もあったりして、歌を覚えたり、応援のことばを覚えたりいろいろと大変かもしれませんね。リレーで走る選手などは、どうやったら少しでも早く走ることが出来るだろうかと話し合ったり、先生に相談するかもしれませんね。天候が守られ、良い時となるようにお祈りしています。

 さて、先週の話しを覚えているでしょうか。モーセの後、イスラエルの民を導くために立てられた新しいリーダーとなったヨシュアさんの話しになりましたね。ヨシュアが言いました。「さあ、皆でヨルダン川を渡ろう!川の水はとても多くて勢いよく流れているけれど、神の箱を担ぐ祭司の足が水に触れると、この川の水はせき止められるから渡ることが出来る。」ヨシュアの言う通り、祭司の足がヨルダン川の水に触れた瞬間、水がせき止められて、皆で渇いたところを渡ることが出来たのです。

 さあ、いよいよ神様が約束してくださったカナンの地を自分たちのものとする戦いが始まります。最初に占領するべき町は、「エリコ」という町です。神様は、イスラエルの人たちに町を占領することをお命じになりました。これは、今世界の各地で行われている戦争を神様が認めているということではありません。ヨシュアの時代は、神様のきよさ、正しさを示すため、イスラエルの人たちの信仰を守るために必要なことだったのです。そのことを覚えておいてください。
 とにかく、イスラエルの民は、エリコと言う町を目の前にしています。「壁、高いね。エリコの町は大きいね。こんな町、どうやって攻めることが出来るんだろうか?」ヨルダン川を渡った人たちは、大きなエリコの町を目の前にしてビックリです。ヨシュアも「いや~、どうしようか。町が大きく、城壁に囲まれているとは聞いていたけれど、これは困ったなぁ」と頭を抱えてしまいました。

 その時です。ヨシュアの目の前に神様の使い「主の軍の将」が現れてヨシュアを励まします。ヨシュアは、神様が力を与えてくださって戦うことが出来ると知りました。そして神様から、ヨシュアにエリコを攻めとる方法が伝えられました。神様は、どんな作戦を立ててくださったのでしょうか。
 神様は、言われます。「エリコの町は、もうすでにあなたがたに与えている。作戦は、エリコの城壁の周りを一日一周することです。行列の順番は、戦いの兵士の半分が一番前、次に角笛を吹く祭司、その後ろに神の箱を担ぐ祭司、一番後ろは、戦いの兵士の半分が角笛を吹きならしながら進みます。」これが、神様がヨシュアに伝えた方法です。エリコの城壁の周りを一日一周、しかも誰も話してはいけないのです。一日目、皆、黙って歩きました。二日目も黙って歩きます。聞こえてくる音は、角笛の音と「ザッザッ」と皆が歩く足音だけです。六日間同じようにしました。不思議ですね。ある人の心の声です。「ただ黙って歩いているだけで意味があるのだろうか。」、もう一人は「この作戦で、エリコの町を攻めとることは出来るのだろうか。」、別の人は「あぁ黙って歩くのってつらいなぁ」心の声が聞こえてくるようです。

 七日目はこれまでとは違う方法が伝えられました。七日目は、町を7周します。人々は、朝早く集合して隊列を組んで角笛を吹きながら、皆黙ってエリコの町の周りを7周しました。7周終わった時です。「今だ、時の声を上げろ。」とヨシュアが叫びました。ヨシュアの号令に合わせて皆一斉に「オー、オー、」勝利を宣言する叫び声をあげました。するとどうでしょうか。大きく高い壁が、「ガラガラ」と崩れたのです。「攻め込め―」と言うヨシュアの合図がかかりました。今度はみんな一斉にエリコの町に攻め込み占領することが出来ました。

 今週の御言葉を読みましょう。「信仰によって、人々が七日間エリコの周囲を回ると、その城壁は崩れ落ちました。」ヘブル人への手紙11章30節。ヨシュアは、エリコ攻略という大きな問題を前にして神様の御言葉を信じて前進しました。僕たちには、大きな問題と思えることがあります。皆は、学校の勉強やテスト、中学、高校、大学などに進学するなどこれから様々な経験を積み重ねていきます。覚えておいてほしいことがあります。それは、神様は、皆がこれから進む道を導いてくださり、どんな問題も乗り越える力を与えてくださるということです。ヨシュアに不思議な方法を示して勝利を与えてくださった神様は、今も不思議な方法で僕たちを導いてくださいます。

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。神様は、不思議な方法でヨシュアを導かれました。今も神様は、神様ご自身の方法で僕たちを助け、導いてくださることを感謝いたします。神様、今週小学校では運動会があります。練習した成果を発揮することが出来るように守ってください。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。」

「信仰によって、人々が七日間エリコの周囲を回ると、その城壁は崩れ落ちました。」                  ヘブル人への手紙11章30節

<適用>
 読売巨人軍の終身名誉監督になっている長嶋茂雄さんは、監督時代、バッティングを教える際に、「ボールがグッと来たら、ビュッとバッドを振れば良い」と「擬音」でアドバイスをしていたと言われています。素人には不思議な方法ですが、それを理解する人がいたという話しですから意味のある方法なのでしょうか。私が中学生の時、発声練習をする時間があり、腹式呼吸の説明を先生がしてくれました。その説明の中で突然先生が、「じゃあ、皆、床に仰向けになって」と言うのです。私は、「えっ仰向け?何で?」と思いながら横になりました。中には、「やった、寝られる」と喜ぶ人もいました。皆が横になると先生は、全員に深呼吸をさせました。すると肺が動くのではなく、お腹が動くのです。立っている時は意識しないとお腹を使っての呼吸は出来ないのに、寝ている時は、お腹を使って呼吸をするのです。音楽の先生は、腹式呼吸を体験させるために仰向けにさせたのです。ユニークな方法でしたが、私は、腹式呼吸がどういうものかを知った良い体験でした。
 ユニークな方法と言えば、神様が、ヨシュアに示したエリコ攻略の方法も、とてもユニークなものでした。それこそ、神様しか考えつかないものであり、神様の勝利へとつながるものでした。そしてそれは、ヨシュアが御言葉に従った時に理解できた方法でもありました。

Ⅰ;主を礼拝する

 御言葉に従う時に、私たちは、正しく主をあがめ、礼拝する歩みへと導かれます。
 イスラエルの民は、まず、主を礼拝し従うためにするべきことがありました。それが、割礼を受けることでした(5:2-6)。イスラエルの民は、ヨルダン川を渡っていわゆる敵地の中にいるわけです。今割礼を受けてしまったら、戦いの戦士たちは身動きが取れません。カナンの住民がその様子に気づいてしまったら、一気に攻め込まれて全滅してしまいます。しかし、ヨルダン川を渡るために主なる神様がなさった、川の水をせき止めるという奇跡を目の当たりにして、その地の住民たちは、心が萎え、意気消沈してしまい戦意喪失と言う感じでした。このようにして神様ご自身が、ヨシュアの世代が割礼を受けるための環境を備えてくださったわけです。

 モーセに率いられてエジプトを脱出した時の20歳以上の戦士たちは、皆、割礼を受けていました。しかし彼らは、荒野の40年の間に死んでしまい、イスラエルの民は世代交代が行われました。世代交代した人たちは、神様が定めた割礼を受けていませんでした。割礼とは、神様がアブラハムとの契約を結ぶしるしとして与えたものです。神様は、アブラハムに次のように言われました。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全きものであれ。…。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、またあなたの後の子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしは、あなたの神、あなたの後の子孫の神となる。…。次のことが、わたしとあなたがたとの間で、またあなたの後の子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中の男子はみな、割礼を受けなさい。あなたがたは自分の包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたとの間の契約のしるしとなる(創世記17:1-11)。」
 このために、イスラエルに生れる男の子は、生後8日で割礼を受けることになりました。しかし荒野の40年の間イスラエルの民は、この神様の命令、大切な儀式をしていなかったのです。その理由は、色々あると思いますが、イスラエルの不信仰が一番の理由だったと言えるでしょう。ですからヨシュアは、神様の御言葉に従って割礼を施すのです。このことによって神様がイスラエルとの関係を回復し、イスラエルの民は、契約の民として信仰の回復への一歩を進むこととなりました。

 もう一つイスラエルの民が主を礼拝し従うためにしたことがありました。それは、「過越しの祭り」をしたという事です。「イスラエルの子らはギルガルに宿営し、その月の14日の夕方、エリコの草原で過越しのいけにえを献げた(ヨシュア記5:10)」これは、約束の地での最初の過越しのいけにえという事になります。その翌日に現地の産物を食べることとなりました。この時からマナは、与えられなくなりました。イスラエルの民にとって過越しの祭りは、神様がイスラエルをエジプトから救い出してくださったという神様の救いへの感謝を表す礼拝です。エリコ攻略前に過越しの祭りを祝ったというのは、イスラエルの民の主への礼拝の回復であり、やはり信仰の回復の一歩ということになります。このようにして、ヨシュアは、主の御言葉に従った時になすべきこととして、イスラエルの心を主への礼拝に向けていきました。そしてその礼拝は、御言葉に教えられ、御言葉に従う方法と言うことであり、神様の喜ばれるものとなりました。

 さて、私たちにも礼拝をささげています。私たちは、日々のディボーションとして毎日御言葉によって神様との交わりを持ちます。それは個人的な礼拝と言えるものです。そして私たちは、毎週日曜日、神の民として集まり、主の日の礼拝をささげます。私たちの礼拝は、御言葉に従ったものとなっているでしょうか。礼拝する私たちの心は、神様の御言葉を中心にし、神様に喜ばれるものとなっているでしょうか。私たちの賛美は、主の御名だけをほめたたえ、神様の栄光を声高らかに賛美するものとなっているでしょうか。私たちは、御言葉に照らされて、御言葉に従い、正しく、神様の喜ばれる礼拝をささげることが出来るように求めていきましょう。

Ⅱ;祈り待ち望む(神様の方法)

 御言葉に従う時に、私たちは、神様の方法、神様の導き、神様の時を祈り待ち望むように導かれていくことになります。
 いよいよ第一目標であるエリコを攻めるのですが、ここで重要なことは、神様の方法が示されたという事です。エリコの町は、最古の町として知られていて、町の周囲は城壁で囲まれていました。ですから武器らしい武器を持っていないイスラエルにとって簡単に攻略できるものではありませんでした。しかし、すでにエリコの町は、この戦いに負けていました。と言うのは、エリコの住民(その他の住民も)は、イスラエルの民には全能の主なる神がついていることを知って気力を失っていたからです(5:1)。
 神様は、ヨシュアに、カナンの地を占領するために、「聖絶せよ」と命じていました。この聖絶と言うのはすべてを滅ぼし尽くすということです。そしてこれは、占領する地の全てものが、すでに神様ご自身のものであるから、神様の所有として神様にささげるようにと言う意味があるのです。ですから人間が引き起こす戦争とは違います。これは、神様のきよさ、正しさを証明するためのものであり、イスラエルの民を異教から守るためのものでした。

 神様がエリコを攻略するために与えて戦略は、角笛を吹きながら、黙ってエリコの城壁の周囲を一日一周することでした。私は、イスラエルの人たちが黙って歩くという姿を祈りの姿と重ねることが出来ると思うのです。そこで鳴り響いているのは、角笛の音です。角笛は主なる神を礼拝するために使われる楽器です。人々は、角笛の音を聞きながら、黙って歩くのです。それはまるで、神様の方法、神様の時を求めて祈るかのようです。実際に、ヨシュアは神様から7日目のことを教えらえていました。その日に彼らは勝利をすることが出来るのです。しかし本当にヨシュアは、7日目に勝利を手にすることが出来るのでしょうか。歩きながらヨシュアは、いろいろ考え込んだのではないでしょうか。しかしヨシュアは、黙って歩く中で、主に祈ったことでしょう。イスラエルの民の間にも、歩いているだけでどんな意味があるのかと疑問の声が上がったことでしょう。そのような中で彼らは、黙々と歩く中で主に祈り求めていったのではないでしょうか。ヨシュアやイスラエルの民は、そのように神様の御言葉に従った時に、祈りへと導かれ、神様との交わりが与えられることとなったのだと考えます。

 皆さん、私たちは、どのように生きたら良いのか考えながら人生を進んでいます。そして私たちが直面する様々な事を乗り越えるには、必ず神様の方法があります。その神様の方法は、時としてどのようになるのか分からないということがあります。または、神様の導かれる道が分からないと感じることがあります。イザヤは「あなたが右に行くにも左に行くにも、うしろから『これが道だ。これに歩め』と言うことばを、あなたの耳は聞く(イザヤ30:21)」と教えています。その神様の言葉とは詩篇119篇105節で「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道のひかりです。」と言われている通りです。
 私たちは、このように語りかける神様の御言葉に従い、祈り求めることが大切です。私たちは、祈りを通して主の御声を聞き、主の御言葉を理解する知恵を与えられます。神様は、聖書の御言葉によって私たちに「これに歩め」と語り掛け、私たちの進むべき道を照らしてくださるのです。私たちは、御言葉に従い、祈り心をもって歩み続けましょう。

Ⅲ;賛美(ときの声)の声を上げる

 御言葉に従う時に、私たちは、賛美の声を上げることが出来ます。イスラエルの民は、7日目にエリコの城壁を7周しました。そして「時の声を上げよ」というヨシュアの号令と共に民全員が一斉に勝利の叫びをあげました。すると城壁が崩れ落ち、彼らはエリコの町を攻めとることが出来たのです。
 皆さん、イスラエルの民がエリコの周囲を回っている時には何も変わらず、目の前には城壁があるのです。7周回った時も変化が起こる前兆はなかったことでしょう。何が変化をもたらしたのでしょうか。それは、神様の御言葉を信じて、御言葉に従って「時の声を上げよ」と号令を出したヨシュアの信仰です。そして城壁を目の前にしてヨシュアの号令に従い、勝利を確信して叫んだイスラエルの民の信仰がそこにありました。

 私は、このイスラエルの民の叫びは、神様の御力を信じて叫ぶ主への賛美にも似ているのだと思いました。私たちは何か大きな課題に直面する時、時として祈る力を失うことがあります。そして祈りの力を失うと、賛美をすることが出来なくなります。しかし私たちが、神様に目を向ける時、私たちは御言葉に心を捕らえられ、祈りへと導かれ、賛美が沸き起こって来ます。

 ずっと前の事になりますが、私が特別集会のためにチラシ配布をしていた時のことです。チラシ配布で教会に来る人というのは、あまり多くはありません。その日は雨が降っていました。私は、チラシが余っても仕方ないという理由から傘をさしながらチラシを配り始めました。仕方ないという気持ちで始めたチラシ配布でしたが、配っているうちに私は、「このチラシを用いてください」と祈りの言葉を口にするようになりました。その内に私は、賛美をしているではありませんか。自分としても不思議な経験で、靴の中はびしょ濡れでしたが、私は賛美をしながら喜びに包まれてチラシを配ることが出来ました。そしたら、雨の中でチラシを配った地域から一人、特別集会に来てくださったのです。
 私たちは、主を賛美するその賛美を通して、主の御名をほめたたえ、主の栄光を宣言し、主の勝利を宣言することになるのです。そのことを信じて、私たちは、いつも御言葉に従って歩み、心から主を賛美しつつ歩みましょう。

<祈り>
「愛する天の父なる神様、あなたの聖なる御名を賛美します。ヨシュアは、御言葉に従った時、主への礼拝に導かれ、祈りに導かれ、主への賛美に導かれました。その時、神様は、ご自身の大いなるみわざを行ってくださいました。
 私たちもまた、主の御言葉に従い、主を礼拝します。神様、私たちのささげる礼拝を導いてください。私たちは、いつも神様の導きや神様の方法を求めて祈ります。神様、御言葉によって私たちを教え導いてください。私たちは、あなたの御言葉に従います。私たちは、神様の御名を心から賛美します。神様の救いと勝利を信じて賛美する私たちたちの賛美を導いてください。神様、私たちの心を喜びの賛美で溢れさせてください。この祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」